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ニューギニアの慰安所【中間報告その2】-『秘めたる空戦 』が描くウエワクの慰安所

             『秘めたる空戦 』が描くウエワクの慰安所


              1、前置き

河野談話を守る会」では、ニューギニア島とその周辺にあった慰安所についての真相を探って来た。

このような記事として、

地獄の戦場と化した―ニューギニア慰安所について


真実の追求=ニューギニア慰安所についての調査中間報告



がある。ぜひ連続して読んでいただきたい。



さて、『月刊正論』 (12月特別増刊号)に掲載された田辺敏雄の論文およびに秦郁彦慰安婦と戦場の性』では「ニューギニア島には慰安所は存在しなかった」という事になっているが、存在証言している著作もあることを前回書いている。そこでその話をしようと思うが、ここで気をつけておいてほしいのは、誰かが「慰安所は存在しなかった」と述べたとしてもそれだけで慰安所は無かったとは断定できないし、かと言って「有った」という話も現時点では断定する事はできないということである。研究には広範な努力が必要であり、長い時間がかかるものだ。田辺敏雄の論文についていうならば、この論文は結論に急ぎすぎているのだろう。引用した奥村正二の著作は「現地女性との性的接触」のみをかなり侮蔑的に述べており、
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戦後四十数年して、朝鮮人従軍慰安婦問題と日本政府の係わりが明らかにされた。だが、ニューギニア戦線には無縁のことである。東部にも西部にも慰安婦は一人もいなかった。(略)兵隊とパプア女性との間には性的接触が全くなかったようだ。これに類する話は聞いたことがない。当時のパプア女性は例外なく熱帯性皮膚病に侵されていた。そのうえ蚊除けのため特異な臭いの植物油を体に塗っていた。これらが、兵隊除けにも作用したのだろう。    (技術史専門/奥村正二『戦場パプアニューギェア』中公文庫)

これをもって、「ニューギニア島には慰安所は無かった」とも「レイプは無かった」とも言い切れないのである。たいていの慰安所は現地女性だけではなく、内地(日本)や植民地からも徴集されて来るからである。また将校用の慰安所の場合には、一般兵士はまるで知らない場合もありうる。将校用は飛び込みを受け付けず、看板も出さずに将校の口頭のみで場所が伝えられる場合もあり、奥まった場所や繁華街から離れた場所につくれば一般兵士は気付かないからである。確かにニューギニア戦線は過酷であり、兵士用の慰安所が存在していた可能性は薄いだろう。しかしどこでもよろしくやっていた将校たちが、補給基地の周辺にも慰安所が無くて文句を言わないのは考えにくい。また将校のみが知っていたとしたら、「無かった」ことにしたがるかも知れない。「慰安所」の存在を書いている著作は、松本良男の『秘めたる空戦 』である。この著作の舞台は「女性と言えば看護婦さんが数人いただけ」と針谷和男が書いているウエワクである(針谷和男『ウエワク』1982年。「将校用」だったという。


松本良男『秘めたる空戦』(三式戦「飛燕」の死闘)出版は1989年


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      2、『秘めたる空戦』(三式戦「飛燕」の死闘)の著作紹介


著者は、松本良男であり、アマゾンで紹介されている略歴は次のようになっている。

松本/良男
大正10年4月、札幌に生まれる。旧制札幌二中から拓殖大学に進み昭和16年6月、満州第1157部隊オ隊に入隊(新京)。同12月、ハルピンへ移動。昭和17年3月、飛行第78戦隊に配属と同時に明野陸軍飛行学校に分遣され、戦闘機搭乗員の訓練を受ける。昭和18年2月、独立飛行第103中隊に配属。ソロモン、ニューギニア、フィリピンを転戦。昭和20年4月、米軍の捕虜となり、昭和22年9月、復員。


著作はこの松本が、編者である幾瀬勝彬に送った手紙や手記を元に構成したものだという。著者と編者は、同じ旧北海道庁立札幌第2中学校の同期生で、体操部を創設した親友であった。そして同じ海軍航空隊に属し、ラバウルに配属されていた編者や旧友の宮本郷三にしばしば近状を手紙に書き送ったと書いている(p260)。復員した後の本人の話に照合しながらこの著作を書いたようだ。


幾瀬/勝彬
大正10年8月、札幌に生まれる。早稲田大学文学部国文科に在学中海軍飛行科予備学生(第11期)を志願する。昭和17年10月、土浦海軍航空隊に入隊。霞ヶ浦、横須賀航空隊、ラバウルの151航空隊に転属し、ラバウル終戦を迎える。海軍大尉。昭和21年5月に復員後、NHKニッポン放送に勤務。退社後、「死を呼ぶクイズ」などの推理小説、「神風特攻第一号」/「海軍式男の作法22章」(光人社)などの戦記を執筆。平成7年4月(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


          3、 慰安所が描かれた個所

問題の慰安婦記述は次のようなものだ。

まずp150、151著者(松本)が、ウエワクの町から朝帰りした場面が描かれている。

町には料亭と称する泊まれる場所や、将校クラブなどがある。昨夜私はその1軒、松島に泊ったのである。


このブログの定期的読者は知っているはずだが、「将校クラブ」は、将校専門の慰安所である。ただし、1日に複数人を相手にしなければならない通常の兵士用慰安所とは異なり、おおむね1日に1人を相手にすればよかった。宴会可能であり、当時の日本国内の枕芸者のような扱いで、日本人女性が多かったという。

松本自身の説明によれば、

「将校クラブとは聞こえがいいが、何のことはない売春宿である。ただ建物が日本内地の料亭風の造りで、飲食や宴会ができるのが、慰安所とは違うところで、芸者と称する女を大勢抱え、将校を相手に女を抱かせる娼家なのである」松本はこのように説明している。 (p262)

ニューギニアの玄関口であったウエワクの町は賑やかだったらしい(p275)。
松本の中隊は、12月15日にニューブリテン島ツルブに連合軍が上陸したのでウエワクに転進した。そこで古いなじみの慰安婦と偶然再開し、恋愛に発展した。

「だから由紀子は母親であり、姉であり、恋人であり、友人であった」(p264)
由紀子という将校クラブの女性には、前借金が無かった。(p265)そこで、19年の6月「いっしょに暮らそう」と由紀子は言うが、(p164)自分の死を見つめていた松本はそれを拒む。この話がp264~p273まで10頁に渡ってつづられている。また、p279~p337まで別れのシーンが描かれている。そしてその後彼女の乗った輸送船が沈められたかもしれないことを述べている。




           4、この著作に対する信頼度

「103中隊は実在かフィクションか?」、を含めこの著作には疑義もあるが、現状で全面的に否定することはできない。戦場では思わぬことがおこるものであり、第7飛行船団、第6飛行船団、第4航空軍がウェワクから撤退した後、独立飛行中隊が残されたとしても、それも有りうる話である。参謀本部を含め当時の指揮官たちが、合理的に物事を判断していた証拠は無い。自殺行為に等しくても命令していたのが皇軍だったからだ。とりわけ辻政信のほとんど犯罪的な謀略によって地獄化を加速させたニューギニアに何が起こったか分かったものではないのだ。

しかしこの著作は「103中隊が実在」以外にも「兵器や通信機器」に関する疑問も存在しており、さらに主人公である松本良男が恋愛関係にあった慰安婦由紀子と性関係を持たなかったのもストーリーとして”できすぎ”であるように思える。空中戦と悲恋を題材として描いたノンフィクションの形をしたフィクションの可能性もあり、現時点では結論を出すことはできない。