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「朝鮮人慰安婦が多かった」・・・証拠文献・証言一覧表


「日本人慰安婦が一番多かった」・・・という主張は、在特会から日本会議産経新聞まで、いわいる国粋主義者たちには流行らしい。

しかし、これがほとんど、あるいはまったく根拠が無く矛盾に満ちたものである事は、これまで指摘して来た。





秦郁彦が 『慰安婦と戦場の性』 で根拠に挙げている著作は、ごく少数である。
p407の<表12-14>には、下津勇や児島幸造、大平文夫、二宮義郎などが挙げられているが、このうち著作があるのは、下津勇ぐらいであり、後は何の著作または証言を根拠にしているのか?まったく分からない。児島幸造、大平文夫、二宮義郎は誰が、いつ、どのように採談したのか?まづそこから秦は始めるべきだ。

要するに秦は、たくさんの著作で「朝鮮人慰安婦が多くいた」と書かれているものを、ほとんど根拠を示さないまま否定しているのである。

誰かが書いていたが、秦は歴史家の看板を外すべきである。





慰安婦に朝鮮女性が多かった事を証言する将兵の著作と証言>

作成:河野談話を守る会
 
<中国>
著作
著者
引用ページ
時・場所
記載内容
備考
『戦場と記者 - 日華事変、太平洋戦争従軍記』

冬樹社
1967
小俣行男

読売新聞・従軍記者
p172
応山
武漢作戦終了後、第三師団が応山に駐屯していたため、『特殊慰安所』がつくられた。家は十数軒、ここには珍しく日本の若い女がたくさんいた
この応山で著者は騙されて連れて来られた日本娘に出会っている。
『歴戦1万5000キロ』


中公文庫
2002

(単行本、
1999)
藤崎武男

昭和16年7月に、陸軍士官学校を第55期生として卒業。歩兵第227連隊に赴任、野戦小隊
長、初年兵教官、連隊旗手、第一中隊長
p27
中国
大隊本部以上の上級司令部のある駐屯地には、たいていピー屋があって営業していた。だから、私の中隊のような陣地勤務の将兵が《遊ぶ》となると、これら本部の所在地まで出張しなければならなかった。慰安婦の多くが朝鮮半島出身者で、日本人はよほど治安のいい地区でないといなかった
中国・信陽にも朝鮮人慰安婦がいたことを書いている
『戦争奴隷』 

1967
津山章作
p231
湖北
戦地の娼婦は9割以上が半島の女であった。あとわずかが内地の女、さらに少ないのが中国人だった。 
 

1974
鈴木卓四郎
昭和15年4月、憲兵上等兵を拝命。南支派遣軍に転属
p59~p61
中国・南支軍占領地
此の1500人前後の7割以上は半島人(朝鮮人)婦女子であったことは驚くより外はない
 
『 娘に語る祖国『満州駅伝』従軍慰安婦編』
つかこうへい
関東軍将校(砲兵連隊)による満州の話 
 
私の知っている範囲では、やっぱり朝鮮半島出身が圧倒的に多いですよ。
 
『戦旅の手帳』
伊藤桂一 1986 直木賞作家 『落日の戦場』『静かなノモンハン』などの作品あり
 
蕪湖
なんとなしに朝鮮人慰安婦たちの相談役みたいな仕事?をしていて、・・・・・20人ほどい る女の中で気質の悪いのはいなかった。
 
『兵隊達の陸軍史』

 1969 
 
支那の著者のいた駐屯地には、兵員600に対して朝鮮人慰安婦が4人いた。
 
 
 
華北戦記』

1997
桑島節郎 1942年2月より満4年間にわたり一兵士として中国。華北戦線
p247~p250
中国・華北
兵隊の性欲処理のために部隊によっては慰安婦をかかえ、慰安所を設け、性に飢えた兵隊たちの欲望を満たしていた。慰安婦朝鮮人と中国人が多かった。
 
『Gパン主計ルソン戦記』

1986
金井英一郎昭和18年入営し、昭和19年6月、東京陸軍経理学校を卒業、満州孫呉
 
昭和19年6月ころの満州孫呉
50名の慰安婦が・・・慰安婦すべて若い朝鮮女性である。
 
『1932日間の軍隊』

2005。
上斗米正雄 昭和15年、現役兵として関東軍に入隊。その後、支那派遣軍に転属し、敗戦まで中国各地を転戦。
 
 p123~p125
昭和17年4月、満州・綏遠
ピー(慰安婦)殆ど朝鮮人であった。
 
赤紙兵隊記』

1987 
 他の著作 『シベリヤの歌』 
p78
 満洲 間島