河野談話を守る会のブログ2

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「朝鮮人慰安婦が多かった」図表②

赤紙兵隊記』
1987 
 他の著作 『シベリヤの歌』 
p78
 満洲 間島
興亜館
第一第2
 
いわいる「ピー」と呼ばれる女性達はほとんどが朝鮮娘であった。
 
聞き書き ある憲兵の記録』 
 朝日文庫、1991
 
朝日新聞山形支局
土屋は、昭和6年、関東軍独立守備隊に入隊し、9年から敗戦まで関東軍憲兵として勤務
 
p143
 
チチハル市には、軍専属の慰安所が3か所あった。2か所は朝鮮人女性で、残りが日本人女性だった
 
『わが青春の海軍生活ー素顔の帝国海軍・別巻』 
海友堂
1981。
 
瀬間喬 
昭和6年、海軍経理学校卒業、以後海軍勤務。海軍主計中佐
 
 
昭和13年ころ
中国・南京
陸軍将校の慰安所
 
慰安婦全部朝鮮人であった
 
『ああ応召兵』 
1978
故吉田慎一の6年間の陣中日記を著者がまとめたもの
津村敏行
吉田は、昭和16年10月、陸軍に召集され、ジャワ、ラバウル、フィリピン、南支、ビルマ仏印などを敗戦まで転戦。
 
p127
昭和18年、広東市
 
慰安所も大々的に開かれていて、朝鮮の女性が大部分であった。
 
『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』
2002
松岡環編

南京戦に従軍した元兵士102人の証言

p276
中国
(第16師団歩兵第33連隊第3大隊兵士の証言)
慰安婦慰安婦いうて、30人くらいの女をたいがいの部隊では連れて歩いておった。ほとんど朝鮮人の女じゃった。
 
 
 
大月書店
1999
昭和15年、現役召集を受けた浅見昇一氏の証言)
p177
中国・盂県県城
朝鮮人慰安婦がいる慰安所が1軒あり、浅見さんも一度行ったことがある」
 
『モリトシの兵隊物語』

青村出版社
1988

森利

昭和16年現役兵として野砲兵第1連隊に入隊し、渡満。昭和19年、鉄道13連隊に転属し、中国各地を転戦

p311
中国 
戦時中、日本軍が駐屯している所には例外なく慰安所があった。そして、大部分の慰安婦朝鮮人女性である
 
『変転せる我が人生』
日本文化連合会
1973
 
 
藤村謙

昭和12年7月、熊本野砲兵第六連隊長となり、第六師団内にあって、北支、中支に出征、南京、漢口などの会戦に参加

 
昭和12年12月以降
中国・蕪湖。
日本女性と朝鮮人女性とが来たが、後者の方が一般に評判が良いので逐次之に代えることにした
 
『51年目のメッセージ』
旭川冨貴堂
1996年
戦後50年記念「私の戦中・戦後」公募手記集編集委員会
p82
中国・輝県
それらの棟に『お姐さん』が朝鮮女性が8割、中国女性1割、日本女性0.5、フィリッピン女性0.5の割合であった。
 
『日本一歩いた「冬」兵団ー第37師団・一軍医の大陸転戦記』
1993
江頭義信
 
 
「冬」兵団ー第37師団、第3大隊
河津
固鎮
稷山
我が第3大隊地区では、河津と固鎮と稷山に慰安所があった。女性は、朝鮮半島出身の乙女達が多かった。運城には日本女性もいたが、ドサ廻りの我々には縁がなかった
 
『満蒙軍属日誌』
1981
益子徳三
東京中央電信局に勤務中、昭和16年7月、36歳で“逓信軍属”(尉官待遇)となり、満州に渡り、翌17年秋、帰国
p68~p72