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『帝国の慰安婦』の賛美者たちはなぜ「国会決議」実現の努力をしないのか?


形を取り繕うのが上手いな、というのが朴裕河『帝国の慰安婦を読んだ第一感である。まるで秦郁彦慰安婦論説みたいなものだ。
形だけはまともな事を書いているように装う。

しかし細かく見ていくと妙な文章がたくさんある。そしてむしろその妙な文章が朴の主張の中心になっているのである。

例えば朴は日本語版の序文には「本書で試みたのは、「朝鮮人慰安婦」として声をあげた女性たちの声にひたすら耳を澄ませることでした」(p10)と書いている。

しかし、「女性たちの声にひたすら耳を澄ませ」たはずの人が書いた慰安婦認識は複数の元慰安婦の方々に反発を受け、訴訟にまで発展している。朴が「慰安婦はこうだった」と述べるとそれに対して元慰安婦たちは、「そんなことはないわよ。そんなの嘘よ。いい加減にしなさい。」と言うのだ。元慰安婦ハルモニたちにとって朴の”代弁”は耐えきれない屈辱であり、事実を歪曲した認識にすぎなかったのである。「ひたすら耳を澄ませた」というのはまったくの虚偽であるというしかない。
この本は複数のハルモニたちに訴えられた時点で「虚偽本である」と認定すべきものであろう。
まるで立候補者の空演説みたいなものだが、この手の形だけまともそうだが、内容を伴わない説が展開しているのが『帝国の慰安婦なのである。

日本語版のp11には解決の道として「必ずしも「立法」を意味せず国会決議が望ましい」という意見を書いている。日本語版だけに書かれているという事は、日本人読者に対して、「国会決議」を提案したという事だろう。しかし慰安婦問題に関わって来た我々としては「席上の空論」というしかない主張である。土俵がまるでできていないからである。「国会決議が望ましい」と述べれば国会決議がなされるとでも思っているのだろうか?事実として朴裕河本人もその支援者たちも、その提案である「国会決議」を実現するための何の努力もしていない。朴をハンナ・アーレントに例えて称賛した高橋源一郎やたえず朴裕河をひいきしている上野千鶴子ら、『帝国の慰安婦を書評でベタ誉めしていた著名な言論人は数多い。また朝日新聞毎日新聞はこぞって朴裕河を応援していたのだから、国会決議」を誘導するための何らかの動きがあってよさそうなものである。もし私が朴裕河の論説に正しいと思ったなら、すぐに「慰安婦国会決議議員連盟」を立ち上げるだろう。推薦人はいくらでもいるではないか?

しかし彼らは『帝国の慰安婦を称揚するだけで小指一本動かさない。

最初からそういう人達なのだと考えるしかない。つまり、席上で何か言ったとしても、それはただ言っているだけであり、何ら実を伴わないのである。まるで『聖書』の中で批判されている律法学者である。

結局は彼らは「慰安婦問題を解決したい」のではなかったわけだ。
じゃあ、何がしたかったのか?

それは邪魔である。
解決するあらゆる努力に”水を差して”いるだけである。

そういう目で見ると『帝国の慰安婦とその称賛者たちのいくつかの言説がなぜあんな風に空虚で詭弁に満ちているのか、よく分かる。例えば、1905年の大連の日本人売春婦の話を根拠に、慰安所の第一の目的を「高嶺の花だった買春を兵士の手にも届くものにすることだった。」などとしてみたり、藍谷邦雄氏の論文を歪曲して使ったり≪.≫日本人慰安婦の話を朝鮮人慰安婦にわけもなく適用したり≪.≫「隠蔽」と言えないものを「隠蔽」と述べることで本当の「隠蔽」を隠したり≪≫・・・・枚挙のいとまのない歪曲と詭弁がなされている。これを擁護・宣伝しようという応援者たちの言動もまた空虚さに満ちている。

鄭栄桓氏は、読むたびに問題が見つかると嘆いているが、実際にそういう本であり、問題は一つや二つではなく、細かい表現を入れれば数十、数百か所にものぼるだろう。

読むだけで暗澹たる気分にさせられる本だが、支援者たちにはぜひ「国会決議」を目指して、努力していただきたいものだ。そうすれば少しは評価しようと思う。