裁判はいつも良心を取り戻すための闘いである(1)植村さんの娘さん裁判
先月の終わりから今月にかけて裁判情報が二つ入っているので、ご報告しておきたい。
昨日のニュースである。
下の記事はどちらも、3日の17時すぎの配信だが、ちょうどこの時間私は植村氏の裁判の報告集会に参加しており、植村氏本人の口からこのニュースを聞いている。
「勝ったんだって」ととなりに座っていた友人はそう言いながら目をキラキラさせていた。
写真や個人情報をさらした上に、脅迫的言葉を吐いた卑劣な被告が敗訴するのは当たり前だが、実際に判決が確定するまでは何があるか分からないのだ。
そして、日本の司法が完全に腐敗しているわけでもないことが証明されたのであった。
裁判所の腐敗した世界
この頃から裁判所にきな臭い空気がただよいはじめ、山本祐司の『最高裁物語(上・下)』(日本評論社、1994年)によれば、石田は判事の事実上の指名権者として、リベラルの傾向が強かった青年法律家協会系の裁判官を排除した。この裁判官の構成変更が、数の上では、後の大法廷における行政寄り(右寄り)判決続出の一因となっているという。
今日では、靖国神社崇敬者総代も務めている三好は、任期中に愛媛県靖国神社玉串訴訟大法廷判決(最判平9.4.2)を迎え、違憲とした多数意見に対し、「公費支出に宗教的意義はなく合憲」という意見を可部恒雄と共に述べている。http://article9.jp/wordpress/?p=1364
三好の意見は、法律よりも自分の好悪判断に根ざしており、靖國神社が戦没者慰霊の中心施設であり、国や地方公共団体が慰霊を行うことを容認する方向性をもっている。http://nippon-ehime.jp/yotei/1502.html
こうした人物たちが最高裁判所を牛耳り、その指名権を行使して来た以上、とくに靖国をはじめとする神社からみではまともな判決がなされるわけがない。それゆえ政教分離に関して、1960年代の津地鎮祭違憲訴訟をはじめとして多数のトンデモ判決がなされて来たのである。
事務局が気に入らない判決を出せば、左遷人事が待っており、たえず上の目を気にしながら判決を出さねばならず、ストレスが溜まる裁判官の犯罪も多いのが実情なのだ。
『ニッポンの裁判』(講談社現代新書)によれば、森喜朗首相の多数の失言を受けて世論やマスコミから激しく批判され、連立与党の公明党も、最大支持母体の創価学会が週刊誌などから「創価学会批判キャンペーン」を展開されるなど、逆風にさらされていた。そのような状況下、自公は衆参法務委員会などで裁判所に圧力をかけ、裁判所がそれを受けて最高裁を中心に名誉棄損の主張を簡単に認めるように裁判の基準を変えたのである。賠償額も高額化させ、謝罪広告などを積極的に認めるようになったという。
我が国では、「三権分立」など、お正月のお餅のようにコナゴナに砕いてしまう勢力がある。
私見を言わせてもらえば、日本の裁判はまず裁判官に良心を取り戻させるための闘いから始まるのである。裁判では、被告や参考人が、良心に元づいて真実を述べることを誓うが、我が国では裁判官にも良心に元づく判決を要求しなければならない。
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NHKニュースWEB
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