河野談話を守る会のブログ2

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強姦から見た大東亜戦争史(3)

戦争は悲惨である。
それは誰もが知っている。
我々の父母祖父母達は、敗戦の瓦礫の中にたたずみながら、「どうしてこのような酷いことが起こったのか?」知ろうとしたができなかった。
あれからすでに70年近い時が経て、我々は祖先を苦しめたあの戦争に再び触れているのである。
慰安婦たちの貴重な証言を通して。

日本軍には、「強姦」が多発したし、軍紀は大きく乱れていた。
 
 
             △△△△
 
軍紀が大きく乱れ、略奪と強姦が日常となった日本軍の様子を、戦後右翼のフィクサーであった児玉誉士夫はこう伝えている。
 

児玉誉士夫随想 『われ かく戦えり』 より 

満州でも蒙古でも日本人の進出するところ必ず派閥が伴ない、お互いがいがみ合っていた。戦乱の北支と内蒙を旅して感じたことは、日支事変にたいする本質的な矛盾と疑問だった。ことに驚かされたのはいたるところの戦場に奮戦する中国軍の頑強さと抗日思想の激しさであった。それに比較して日本軍幹部の堕落と、兵の素質の低下は全く意外であった。もちろん、まだ全般的にはそうではなかったが、特務機関とか謀略参謀の職責にある人々の日常は、皇軍の崇高な精神をまったく忘却したものであった。機密費の乱費、酒と女、こうした暗い影が占領地都市のいたるところにみられた。

 自分は日本を発つ前に外務省情報部長河相達夫氏を訪ねて、外地を旅するに必要な援助と注意を受けたが、そのとき河相氏が数枚の写真を見せて「これが天皇の軍隊がすることだろうか」と言って憤慨していたが、それは現地にある日本軍が中国の婦女に暴行を加えている、みるに堪えぬ写真であった。そのとき、ふと、これは中国政府が民衆に抗日思想を宣伝するためのトリックではなかろうかと疑ったが、いろいろなできごとに直面してみると、この写真は真実であることを肯定せざるを得なかった。

当時、大同では「大同に処女なし」という言葉があったが、この言葉の意味は日本軍の恥辱を意味するものであった。また占領地の寺や廟に行ってみても仏像の首などが無惨にとり毀され、その壁には「何年何月何部隊占領」などと落書してあった。人間が神や聖人でないかぎり、どこの軍隊でも若干の非行はあるとしても、当時、日増しに激化してきた中国の抗日思想の源が満州事変のみではなく、こうした日本軍の常識はずれの行為がさらにそれに拍車をかける結果となったのだと思う。

  満州事変以来、国防国家の確立に名をかりて政治権力を獲得することに狂奔してきた軍の首脳部は、部下にたいする統御力をしだいに失ってきていた。陸軍大臣が中央にあったロボット化されていたと同様に、軍首脳部もまた現地軍を統御できなかった。そして現地軍の幹部は将校、兵士の非行を取締まるには、あまりにもその行いは威厳を失墜するものがあった。要するに軍部内に革新派が生まれ、首脳部がそれを政治的に利用し、政治的に進出するにつれて下剋上の思想は軍全体に漲ってきたのだった。いわば当初国内政治を革新することを目的とした、少数の下級将校の行動は知らぬ間に軍自体の規律を破壊し、日本軍を思想的に崩壊される結果となった。軍部内の下剋上のこの思想が結局日支事変を誘発し、そして現地における不規律を助長するようになったといえる。

  要するに戦線の詔勅なき戦争、名分の明らかならざる戦い、日支事変は畢竟、王師ではなく、驕兵であったかも知れぬ。自分は戦場を旅し、大陸における実情を知るにおよんで、在支百万の日本軍が聖戦の師であるか、侵略の驕兵なるかの疑問に悩まざるを得なかった。このことは自分のみならず現地を知るものの多数が考えさせられた問題であったと思う。

 しかし国民のなかの多数の者がそれを自覚し得たとしても、すでに軍国主義の怒涛が逆巻き、もはや何人の力をもってしてもそれを阻止することは不可能であった。そして、この軍国主義の怒涛は、昭和四、五年以来、政党不信をスローガンに、国民大衆が挙げた革新の叫びとその雰囲気のなかから生まれでているとすれば、そして自分もまたその革新勢力のなかの一つの勢力であった右翼派の一つとして行動してきたことを思うと、支那大陸に野火の
ように拡がって行く軍国主義日本の現実をみて、自らも悔いねばならぬもののあることを知った。

『われ かく戦えり』 P78~P80) 

1949年、出版。
1973年に氏自身の発意により「われかく戦えり」と改題して再版されている。
敗戦直後の右翼達は現在の右翼のように、あの戦争を美化することがなかった。記憶が生生しく張り付いていたからである。




 
「現地にある日本軍が中国の婦女に暴行を加えている、みるに堪えぬ写真であった」
「大同に処女なし」

要するにそれほど「強姦が多い」ということである。
 

当時の中央官庁においては、児玉誉士夫が言及しているような上記「残虐写真」の存在は比較的知られていたらしい。矢吹一夫の記述によれば、
「その写真の出所は、出征兵士たちが家郷に送ったものが、検閲により没収されたものである」と言う。



 
これらの写真は、小野次官の説明によると、出征兵士たちが、自己の武勇(?)を誇示するためかどうか、写真に撮って家郷に送ったものが、途中検閲によって押収されたものだということだ。

日本民族に潜在する残虐性が、戦場という異常状態に触発されて暴発したものであるにせよ、あまりにも無惨であり、ひどすぎるという慨嘆の声である。
(略)
終戦後のこと、この問題に関連するのだが、支那派遣軍最高司令官だった岡村寧次陸軍大将は、引き揚げて帰国後、戦時中日本軍兵士が中国大陸で犯した残虐事件について、数多くの資料を持っていること、日本人がかような残虐事件を犯すに至ったのは、過去の教育が誤っていたのではなかろうか、新生日本の将来を考えると、どうしても日本人の精神改造というか、人格の練り直しをはからねばならぬと思うが、研究してくれぬか、と大きな袋をかつぎ込んで相談にやって来たことがある。(P398-399)
矢吹一夫『政変昭和秘史』(上)より
 

 
帰還した兵士達から直接話しを聞いた人も多くいた。
 

 
日野原重明━監修「新老人の会」編
『歌われたのは軍歌ではなく、心の歌  語り残す戦争体験』
新日本出版社
P79  怒りと嘆きの底から   夏地弥生子

・・・戦争が終わり、それから幾日たった頃だったか。いとこ達が遠い戦地から帰って来た。負け戦で命があって無事帰還したというので、私達親戚は2人の従兄弟に「ご苦労さん会」を開くことにした。・・・・・・(中略)・・・・

私は、正義のため、祖国のため、遠い戦地でさぞご苦労だっただろうと、いろいろの手柄話から察して聞いていた。
その内、酔いが回ってきた従兄弟の一人は、まるで戦争に勝って来た勇者のような素振りになってきた。

いかにして敵地を襲ったか、数知れぬ敵をやっつけたか、そんな話になってきた。・・・・

(中略)・・・・

(フィリピン戦線で)そのマッカーサーが一時、撤退したときのことをBは得々としゃべりだしたものである。アメリカ兵の引き上げた後のフィリピンで、日本兵は、残された者、兵士と民間人を襲ったのだ。
負傷して倒れているアメリカ兵の側に寄ると、何やら必死で命乞いをしているらしいその負傷者の頭上に、わざと大きな声で、「ワン、ツー、スリー」と掛け声をかけ、運んで来た大きな石を何人がかりかで落とすというものだった。身動きできないアメリカ兵の傷ついた頭に向かって、日本兵は次々と同じ方法で殺して行ったという。

「ワン、ツー、スリー」
その従兄弟は、歌を歌うように声を出してその所作をしてみせた。

聞いていた私達は、声を出す者もいなかった。みな同じ気持ちであったのだろう。驚き、呆れ、怪しみ、そいて悲しみからでもない、身体に身震いが起こり、それは止むことがなかった。一人の叔父は蒼白となり壁を見つめたまま、もう一人の叔母は、それこそ口をあんぐりと開けて目をむいていた。

そして、中国から帰って来た今一人の従兄弟は、反抗する女達を、日本の兵士達はどんな野蛮な方法で辱めてきたかを、得々とした表情で語り始めていた

従兄弟二人は、「帰還ご苦労会」でとんでもないお土産を、集まった親族たちに撒き散らかした。その信じられないような恐ろしい報告は、生々しく率直なものだけに、聞くものはすごいショックを受けて、それに対して一言の言葉も挟む者はいなかった。
親族の中では、一番のもの知りといわれている叔父が、「戦争ちゅうもんは、そんなもんや」と、やっとこさで言ったのに・・・・(中略)・・・・

私は幼かった頃から、中国人のことを「チャンコロ」と言って卑しめ、在日朝鮮人を訳もなく軽蔑し、その子供達を、日本人の子は苛めるのが当然のように思っていた。
それから、あの鬼畜米英の時代になった。

 


従軍慰安婦達の話を聞いて、私達が知らなければならないのは、いったい何であろうか?
それは「皇軍」だの「神州不滅」だの「大東亜秩序」だとか言う御託がまったく無意味になってしまう日本軍の本当の姿である。
多くの人にとって、その姿は認めたくないものかも知れない。
しかし、例え認めたくなくとも真実は変えられない。





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 矢次一夫(国策研究会主宰) 
 「女房もちの多くの兵たちが、突然動員され出征させられるのだから、中国各地で性犯罪が頻発するであろうことは自明だったのだが、これを抑制したり取り締まったりする方法はなかったわけだ。 
 事実当時の逓信事務次官だった小野猛は、極秘だが、お目にかけよう、といって、数冊の分厚い写真帳を貸してくれたので、ひらいて見たら、暴行のかぎりをつくした写真が一杯ある。血刃を指し上げている一兵士の周囲に、数十箇の中国兵の首級が陳列されているものだとか、近衛に相似した中国兵の首級を木の枝にひっかけ、葉巻をくわえたような形で切断した男根を口にさしこんだものだとか、今や正にエイッと中国兵を打首にしようとしているものだとか、筆紙につくしがたい残虐写真が満載されていた」 
 「私はこれをちょっと貸してくれ、と頼み、正午の国策研究会常任理事会にもちこんで、食事が済んだら大変な資料を見せる、と言ったら、下村海南、大蔵公望、今井田清徳、大橋八郎などの役員たちが、食事前でもよいから、見せろ、といって聞かない。私が、食事がまずくなる、というのに、下村海南など、思わせぶりをするなよ、早く見せろ、というので、では、といって写真帖を開いた。 
 一同はこれを取り囲んで一見するや否や、さすがに顔色が変わり、ううんと唸ったっきり、しばらくは一言を発するものもない。これらの写真は、小野の説明によると、出征兵士たちが、自己の武勇?を誇示するためかどうか、写真に撮って家郷に送ったものが、途中検閲によって押収されたものだということだ。日本民族に潜在する残虐性が戦場という異常状態で爆発したものであるにせよ、 
 かつて外国人によって書かれた『泰天二十年』に見られる日露戦争当時の、軍規整々、を謳われたものと同じ日本人、しかも私共の祖父の時代であるだけに驚きは大きく、とくに下村海南は、日露役当時逓信省の局長として活躍した人物だけに、痛恨の情は、ひとしおであった」 
   ( 矢次一夫 『昭和動乱私史 上巻』 )