慰安婦資料用 元日本兵の戦記・日記
これは単に資料用です。
田中保善 『泣き虫軍医物語』 毎日新聞社 1980
1944,5
「女給は皆日本娘で将校用の慰安婦をしており、兵隊用は先日私たちの兵舎を訪問した女たちで、日本娘の他に朝鮮や台湾の娘もおり、時にはジャワ娘もいた」
*女給=ゼッセルトンの兵站宿舎兼料亭の女たち
予備情報
戦後、復員船で上級者に対するリンチが行われたがヒューマニストの筆者だけはまぬがれている。
(『「慰安所」男のホンネ』高崎隆司P80~83)
国分俊一 『南海の青春』 1985
セレベス島ポプラ、マッサカル
1944,5
「私の着任祝を第101防幹部準仕官と住友鉱業幹部で実施してくれた。・・・・・このポプラには隊用のクラブと住友鉱山社員用の慰安所の2箇所があり、住友社員用はミナハサ族が、隊用はブギス系であった。」
1943
「・・・・朝鮮の女がほとんどで一部沖縄の女ということだった」
「入り口の外にはずらりと兵たちが列をつくって、順番を待っているのには度肝を抜かれた」
「カーテンをまくって入ると何とも不快な汚臭が鼻をついた。無表情そのものの「かの女」がやせた土色の全裸を投げ出して、ふてくされたように椰子の羽の扇子をつかっている。」
秋田武彦 『ポナペ島戦記』 1981
ポナペ島
1943
宮部一三 『ビルマ最前線』 1980
マラッカ
1943
フィリピン派遣軍宣伝班 作家
フィリピン マニラ
1942
「ある個人的なパーティで、当時マニラ市長ギント市が私に「あなたが映画の配給をしてくれるのは我々はありがたいと思っているが、近頃女の配給を軍がしているのは困りものですね」と皮肉を言ったのを覚えている。」
「毎夜酒と女にただれていては軍紀が弛緩するのは当然である。司令官が女を囲っていては将校兵隊が武備を怠るのも無理はない。」
「醜業婦が下駄履きで軍用船から降り、舗装道路に乱れた列をつくって慰安所に配給される光景は、日本人の私が見ていて恥ずかしい思いがしたものである。」
若八会九州支部編集 『戦塵にまみれた青春』 1977
の中の陸軍経理学校幹部候補生隊(第8期)山口栄一「船舶工兵第一連帯」から
マニラ
1942,3
「駆け寄ってきた参謀から声をかけられて「ちょうどよかった。今からお前たちを呼びにいくところであった。命令を伝達する。この船に娘子軍2百人を乗せるので、マニラまでその輸送を命じる。」というのである。」
筆者が訓示をたれて 「・・・諸君はその軍人ととも戦場にありその軍人とともに行動している日本人である・・・。」
三増英夫 『混沌の記』 1946
海軍軍属
ルソン島クラーク基地
アメリカ軍上陸直前 1944、12
空襲の中「・・・2,3の小さなバンガローを見つけた。愕いたことに、そこから真っ赤なイブニングドレスの女たちが飛び出すと・・・・・奇怪に感じて、連れの若い中尉に尋ねてみた。すると照れ草そうに笑いながら、中尉はいうのである。「あれは例の慰安婦ですよ。しかし我々には手が届かんです。」
皇睦夫 『ルソン島とフィリピン』 1981
ルソン島レガスビー
1944
「一本杉さんは、レガスピーの郊外に数人の比島女をおいて、軍の慰安所を経営していた。」
一本杉は戦前からレガスピーに住んでいた。「レガスピー日本領事館顧問」を自称する人物
「「軍にたのまれましてね。これは衛生ゴムサック製造棒です。目下研究中です。」と天野さんは言った。最近、日本軍には衛生サックも不足してきたらしい。・・・」
御園生一哉 『比島軍医戦記』 1983
マニラ
1944
「司令が、米国マニラ突入間近になってパンパン屋の開設を命じた・・」
「航空荘という陸軍航空隊将校専用の慰安所(日本女性)に立ち寄ってみた。ヤリテババアならぬジジイが出てきて、女の一人が昨夜から連続十数人を相手にし、腹痛がするというので温めてみろと言ったところだと語った。」
小松真一 『虜人日記』 1975
陸軍軍属
1945
「苦心の谷川下りだ。途中台湾人慰安婦の一隊に会う」
鈴木俊夫 『回想のフィリピン戦線』 1979
軍医
ルソン北部
「この慰安所は中国戦線にもあったが、高級将校は特定の女を移動の際も連れて歩いていたと聞く」
磯崎隆子 『生ある限りルソンへ』 1984
軍属としてジャワに行く途中「瑞穂丸」が沈没
ルソン島北部 サンフェルナンド
相手は司令部下士官 末期戦局 敗走する中で タイピストとして軍属だった彼女に 「慰安婦になるなら面倒を見てやる、他のものとも相談するように、と副官が言っておられるが、どうか。 衣食住の保障つきで、それならもちろん、トラックで運んでもらえるよ」「慰安婦!?」慰安婦がどういうものか、 当時の私にはよく理解できなかったが、およそ見当がついた。異様な辱めを受けたようで、頭がくらくらっとなった。
『戦争の横顔』 寺崎浩著 1974
ペナン シンガポール 1941~43
報道班員
海軍部隊が入ってきて、海岸地帯を手にいれていた。海岸沿いのホテルをいくつか接収し、学校を手に入れていた。翌日には若い 女の子、主として英語のできる中国娘を連れてきて慰安所を開いていた。
1941、12、20ペナン
「支配人て何者だい?」「日本橋の料理屋の番頭よ。それが監督にごまをすってるでしょう。だから強いのよ。」監督という のは兵枯参謀のこと。一参謀の命令で、旅館、慰安所、宿舎、料亭は思い通りに動かせるのだ。
(会話の相手は将校集会所「図南クラブ」のホステス、シンガポール)
『ビルマ日記』 榊山潤 1963
ラングーン 1942
報道部員
ラングーン市内に基督教青年会館がある。朝鮮の女子部隊が到着して、その女子部の会館が女郎屋 になったのは、10日ばかり前からで・・・・・・「アリラン部隊来る」と書いてある・・・・・・その最初の日には、1人の女が50人から70人 を相手にした、というような話も伝わってきていた。
1942,617
「アリラン部隊は公許だ。女郎屋の亭主が軍と結託して、ひと儲けに乗り出してきたのだからね。ああいう私娼をバッコさせては、公許の女郎 屋の亭主の儲けがうすくなる。うすくなっては、軍として申し訳ない。そこで手入れとなるのが当然の成り行きだ。」「女郎屋の亭主の利得を、軍が 保護するということか」