慰安婦について書いてある元軍人の戦記や日記、回想本は私が数えたところ200以上あるだろう。重要な内容のものもあればさして重要とも思えないものもある。
ここで取り上げているのは、その一部である。
別所源二 『青春と戦争』1980マンダレー東北の避暑地メイミョウ1944将校用クラブの様子「8時ごろになると2階の食堂で鐘が鳴り、私の横を「丸玉」の女たちを含めた2階の住人(将校)が通り抜けて、いそいそと食堂に入っていく。やがてコーヒーのよい香りがこちらに漂ってきて腹をくすぐる。私は毎朝心の中で”畜生”と叫ぶのであった。」
井坂源○ 『弓兵団インパール戦記』 19871944,5マンダレー西 サガイン「慰安所があると聞いて立ちよったが、超満員なのには驚いた。」1945、3シャン高原ケマビュー付近1944年5月インパール作戦に参加した作者は、地獄と言われた戦場を「食糧、医薬品の皆無に泣き、生への望みはいたるところで絶たれた。」と書いている。「師団のやつら女まで連れ歩いていたのか」「6名の彼女たちの運命に幸あらず、山を越えることができずに死んだと戦後人伝に聞いた。」
菊地○『狂風インパール最前線』19821944,3メイミョー「この町には日本人の慰安婦のいるところや日本人の経営する酒場もあった。この日本の女たちは15軍の参謀らがわざわざ日本からつれてきたもので、ほとんど高級将校が独占していたようである。」
高崎伝 『最悪の戦場に奇跡はなかった』 19741945シャン高原からタイへ撤退中
福永勝美 『ビルマの地獄戦』19841945 ペグー山中マヤン「どこから来たのか慰安所の女たちも、この嶮しい山路をテクテク歩いていた。ダブダブの兵隊服に戦闘帽・・・・・言葉使いから広東娘と思われた。他国の戦乱にまきこまれ、生死の淵にあえいでいるかと思うと、哀れさが先に立った。」「坊主頭に軍帽をかぶっていたが、顔を見ると広東娘だった」*本書の前書きには「近頃の世界情勢は、大東亜戦争前のそれに一歩一歩近づきつつあるように「感じられてならない」と書いている。「国内的には戦火の恐ろしさを知らない若者に戦争を肯定するものが増えつつある・・・それは戦慄すべき現象である」という。
この白馬会については町田敬二『戦う文化部隊』 (1967)にも記述があり、ジャワ派遣軍宣伝班長ジャワ島「常夏の島に春(?)がやってきた。春といっても季節の春でもなければ、例の「じゃがたらおはる」でもない。かつての大陸同様、軍の慰安所が開かれたのだ。その人肉の市にはさすがに国際色豊かなニョナン・ノサン(女性)の群像が絢爛と咲きみだれ、むくつけきサムライや蒼白きインテリーなどが、ベチャ(小馬車)を飛ばして夜の蝶を求めたことはいうまでもない。それとは別に、しかるべき婦人をオンリーさんとして、しかるべくやっていた達者なトアン・トアン(旦那衆)もいた。その中に「白馬会」というのがあった。白人の婦人を専らとするグループである。」
和田敏明 『証言・太平洋戦争』 1975ジャワ「おおっぴらにやるのとひそかにやるのと違いはあったが、それこそ戦勝族の多数が、オランダ人、混血女、ジャワ人女性を、それぞれの好みに応じて、不自由なく享楽しているといった感じでした。占領軍の収奪が激しくなればなるほど、原住民の生活が苦しくなるから、善良な婦女まで娼婦化する傾向にあったと言えるでしょう。ことに、夫を俘虜にされた軍人、兵士の妻は、オンリーになるとか売笑婦の道をとるのが、多かったのではないでしょうか」ジャワ生活で一番くだらないと感じたこととして
この点について
黒田秀俊は『軍政』で、「ジャワが陸軍地域であったので、白人は陸軍が独占するところとなった」と書いている。マダラガイにつくられた将校専用慰安所について「「なかなかきれいなものもいますよ。もっともそういうのはたいてい参謀のやつらが独り占めしていますがね」と軍医は言った」と書いている。
将校が特権階級となり、さらに軍の階級上で上位の参謀たちが特権を享受していたのである。
将校の特権が多いな
奥村明『セベレス戦記』19741944,5月セレベス島「正規の慰安所を工事現場付近に開設したのである。・・・」「驚いたことに、街から10キロ奥地の山中に日本人経営の料亭「隅田園」があった。・・・佐官以上でないと「陸軍さん」は遊べないという。・・・日本女性が7,8人働いていたが・・・。」
戸石秦一『消灯ラッパと兵隊』 19761944,45「将校慰安所をかねた日本料理屋に行くと、畳敷きの部屋があって、日本髪の”芸妓”が出て来る。」ブキ・チンギ「将校用慰安所兼料理屋には、「治作」という店と「立花」という店と2軒あった。・・・ここには日本髪のかつらをつけ、長い裾を引いた妓たちがいた。」1945,3月赤十字交換船「阿波丸」は台湾沖で撃沈したがその中に