真実の追求=ニューギニアの慰安所についての調査中間報告
高畠喜次 の『ブーゲンビル戦記』
菅野茂 の『7%の運命 - 東部ニューギニア戦線 密林からの生還』
松田 才二の『孤鷹の眼―随筆戦陣余話 』
に記録されている事をすでに述べており、簡単に紹介している。
さて資料を追加しておく。
1、 日本で刊行されている著作から
ココボ)
あやめ戦記刊行会『あやめ戦記』1975
高橋義『ああラバウル』1970
ラバウル)
角田賤夫『太平洋戦争の体験』1977「1942、陸軍が2軒」
浜野春保『万雷特別攻撃隊』1979「海軍、山楽荘」
六八会文集刊行会『回想のネーヴィーライフ』1981「海軍士官用」
市川靖人『ああ、海軍馬鹿物語』1989「日本人、朝鮮人4人、第一、第二常盤荘、海軍3軒」
海軍705空会『第705海軍航空隊史』1975「1943,1、沖縄の女性」
ニューアイルランド島カビエン)
52防空隊員『52防空隊員の戦記』1977「日本人、カビエン荘」
(これらは『戦争責任研究』第一次、及び第2次調査による)
ラバウル:米国の聞き取り調査)
当時の米国が捕虜に対して行った聞き取り調査では、『捕虜尋問49』が有名である。昔小林よしのりが、歪曲して描いていたミッチーナ資料のことである。
しかし、捕虜に対する尋問調書は、これだけではなく、複数存在しており、すでに1992年12月に吉見義明教授が刊行した『従軍慰安婦資料集』に大方が収集されており、アジア女性基金の資料集にも多数掲載されている。
その中から、ラバウル関連記事を掲載しておこう。
2、アジア女性基金の掲載している記録から、米軍尋問記録
以下はラバウルに関する部分だけを提示している。( http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdf より抜粋)


12人もの捕虜がラバウルの慰安所について証言している。こうした聞き取り文書の中には相互に矛盾する内容も存在している。⑪⑯は「慰安婦は日本人である」と述べているが、⑰は「慰安婦は朝鮮人であった」と述べている。それぞれ、自分の通った慰安所について述べたのだろうが、時期や階級が違うことも考えられる。資料の解析及び批判の詳細はまた別の報告に譲りたい。
は一人もいなかった。」という結論は妥当か?
すでに: http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/65011437.html で「ニューギニア島には慰安所は無かった」という『月刊正論』 (12月特別増刊号)に掲載された田辺敏雄の論文を紹介した。
「陸軍では二〇、四一、五一の各師団の将兵から、海軍にあっては主だった部隊から偏りのないように人選し、直接会い、あるいは電話、書面による聞き取り調査を行った。31人から回答を得ている。」
として、
と書いている。
さらに奥村氏の『戦場パプアニューギェア』(中公文庫)のこの文章をあげている。
戦後四十数年して、朝鮮人の従軍慰安婦問題と日本政府の係わりが明らかにされた。だが、ニューギニア戦線には無縁のことである。東部にも西部にも慰安婦は一人もいなかった。(略)兵隊とパプア女性との間には性的接触が全くなかったようだ。これに類する話は聞いたことがない。当時のパプア女性は例外なく熱帯性皮膚病に侵されていた。そのうえ蚊除けのため特異な臭いの植物油を体に塗っていた。これらが、兵隊除けにも作用したのだろう。(『戦場パプアニューギェア』)
こうして田辺敏雄論文は
と結論している。
また、秦郁彦は補給基地となっていたウエワクの陸軍主計中尉針谷和男の著作『ウエワク』から引用して「女性と言えば看護婦さんが数人いただけ」だという話を掲載している(『慰安婦と戦場の性』p319、針谷和男『ウエワク』(1982))
ウエワクはニューギニア島の街である。
しかし、今回の調査では、ウエワクの「慰安所」について書かれた著作も発見している。この件については次回、詳しく報告することにしよう。