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続 『少年の日の敗戦日記ー朝鮮半島からの帰還ー』 (収容所編)

 (前頁からの続き)

 続 『少年の日の敗戦日記ー朝鮮半島からの帰還ー』 を読んで


第9章以降は「強制収容所」である。ただしこの収容所は強制労働がなく、比較的自由があり、後に交渉して食べ物を取りに帰る事もできた(P155)。また人々はかなりの銀行券(金)を隠しもっていた(137)。この時点で集められた150人の日本人は日本に帰ることを覚悟していたようだ(P128)。ソ連兵による時計の略奪が多くあったが、身体検査をして根こそぎもっていくようなタイプのものではなかった(P139~141)。その時計は焼酎と交換し、朝鮮人の飼っていたブタを盗んで食べた(P141)。最初にやってきたソ連兵が空き家に入って略奪した。その後で朝鮮人も略奪に入ったが、「物をもらえばお返しをするのは当然と心得ている」(P204)という訳で「あれこれ物資を持ってきてくれた」という。元警察官や現役軍人は満州やシベリアに送られ、抑留生活が始まった(P149)。問題となるのは性暴力だが、強姦が頻発したわけではない。ソ連兵は女を求めたが、言うことを聞かないからと言って日本人を殺した訳ではなく、ほとんど被害はなかった。娘たちは顔に炭を塗ったりボロを着たり目立たない努力をした(P148)。ソ連軍から宴席での女性の要求が来たが、旧満州にいた2人の女性が出かけて行った(P259)。この女性達はソ連軍の間に人気で、取り合いの争いも起こったが、彼女達は心得ていて特定の将校としたしくなる事はなかった(p260)。
その後も女を求める動きはあったが切り抜け(p260)、強姦などは記録されていない。

 
本書と関連する情報として2005年に米田建三氏による引き揚民間人を襲った略奪・暴行・殺戮の嵐』『正論』(11月号)に掲載された。確かにソ連軍の強姦は多発したが、慰安婦問題に対抗するためか被害を強調しすぎているきらいがあった。他国を侵略しまた他民族の宗教を尊ぶ事がなかった当時の日本が憎まれていたのは確かだが、本書にみられるような人々が朝鮮・韓国の人たちの助けを得ながら帰還したのも又事実であろう。敗戦とともに「石を持って追われた」フィリピン*対日悪感情が爆発し「日本人の生命・財産は危険にさらされた」同盟国のはずのタイ*に比べれば、町内放送で「節度は守らなければならない。日本人に危害を加えたり、日本人の財産を奪ったりすることは慎まなければならない」という趣旨で繰り返し放送されたという朝鮮からの引き上げは恵まれたものの一つだろう。京城でも敗戦後の引き揚げの際の混乱は少なく10円以上は持ち帰れなかったようだが、襲撃される事もなかったようだ『ある朝鮮総督府警察官僚の回想』「怨みに報いるに徳を持ってす」と述べた蒋介石のような儒教的考えが朝鮮半島にも脈づいていたのだろう。

*フィリピンからの引き揚げについて小松真一は「・・・『バカ野郎』『ドロボー』『コラー』『コノヤロウ』『人殺し』『イカホ・パ ッチョン(お前なんぞ死んじまえ)』・・・憎悪に満ちた表情で罵り、首を切るまねをしたり、石を投げ、木切れがとんでくる。パチンコさえ打ってくる。 隣の人の頭に石が当たり、血がでた・・・」(『虜人日記』)と書いている。

*また、駐タイ大使山本熊彦によればタイでは敗戦とともに「・・・ほとんど連日のごとく住居や建造物は襲撃され、物資は略奪され邦人は戦々恐々として1日も安きを得ず」(『山本熊一遺稿』 外交資料館蔵)と言う。
 

敗戦の衝撃は日本軍の侵攻と共に各地に進出していた民間人に直撃し、日頃の悪行が祟っていくらか支払いをさせられたようだが、朝鮮では比較的穏やかな引き揚げであったと思われる。ソ連軍が侵攻してこなければさらに穏やかだっただろう。第二次世界大戦の終わりと共に始まった北緯38度に線を引くこの分割は、朝鮮の運命だったのかも知れない。