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『少年の日の敗戦日記ー朝鮮半島からの帰還ー』を読んで

 

『少年の日の敗戦日記ー朝鮮半島からの帰還ー』  岩下彪
 

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   法政大学出版局, 2000 - 430 ページ

庶民の知られざる敗戦体験。1945年8月―旧植民地朝鮮の日本人は未曾有の恐慌に襲われた。少年時代の克明なメモをもとに、終戦、抑留、脱出、引揚げに至る歴史的体験の一部始終を復元・再構成し、庶民の知られざる敗戦体験を初めて世に問う。
 
 
 
 
 
 
以上引用
 
 

 
1945年、著者である 岩下彪氏が中学に進学した頃、日本は敗戦を迎えた。舞台は今の北朝鮮平安南道、鎮南浦(チンナンポ)や殷栗(いんりつ、ウンユル)。かつてはリンゴの名産地として知られていた。海と山に囲まれた朝鮮の自然豊かな環境にはしかし「聖戦」を完遂するために容赦なく塩素ガスを吐きだす軽金属工場があった。こうした光景の中で、かなり広い果樹園を経営し戦争中であるにも関わらず平和に暮らして一家は、その後殷栗での抑留から引揚げまで体験することになる。引き上げに際してすでに米ソの対立が38度線をはさんで先鋭化しつつあった様子が分かる。本書はその歴史証言の一つである。
 

「日本統治時代から、一部の日本人には国粋主義的な思想から朝鮮人を蔑視したり敵視したりする風潮が生じた」(P2)

現在でも同じ。国粋主義者達は朝鮮人を蔑視したり敵視したりする風潮がある。

朝鮮戦争勃発直後のNHKのアナウンサーが韓国に国際電話をかけて、韓国人記者と日本語で対話した事があった。当時の韓国人の大多数は日本語をよく知っていた。](P4)


「すでにアッツ島サイパン島の陥落が伝えられ、(「玉砕」と呼ばれた)・・・・・しかしなお連合艦隊は健在だとか(事実はほとんど全滅)本土決戦だとか、必勝の信念だとかいうことが叫ばれていた時代だった。全てが軍隊式になっていた。中学校には軍事教官という配属将校がいて教練などを指導していた。」(P10)

「敗北」と言わずに「玉砕」と言った。こういうのが多いな。「敗戦」と言わず終戦」と呼ぶ。言霊がどうのこうのという人がいるが、要するに表現を変えて、少し捏造を入れていると言う事だろう。戦後も「侵略」を「進出」に変えたというのがあったが。最近では「南京虐殺」の「虐殺」の言葉に文句がついているとか。

「上級生が通りかかったりすると・・・・軍隊式に挙手の礼をする。一同もこれにならって敬礼をする。うっかりして知らずに通りすぎると後で呼びつけられて叱られることもあった。」(P14)

「一番右前の者が号令をかけることになっていた」(P15)

「2年生以上の生徒は(当時中学は4年制)新学年が始まると間もなく、学徒動員で龍岡に送られた。」
「若い教官は次々と召集令状が来て・・・」(P15)

「我こそは忠誠なる忠臣であるという誇りと見栄があった。・・・すべてに優先する事は「戦争に勝つために」ということであった。直接戦争に関係ないことはひどく冷遇されていた時代だった。のんびりしている人間、学問だとか、芸術だとか、芸能だとかを志すような人間、進んで戦線へ出陣したいと願わない人間、l必勝の信念を持っていない人間、・・・そういった人間は全て敵であった。恥を知らない、いやしむべき人間、国賊であった。忠良たる臣民にはこうした恥知らずな者を見つけたら徹底的に叩き直してやらなければならない義務がある。たとえ親しい同級生であろうと、ぐうたらな奴がいたら断固排斥しなければならない。そうする事によって、自分自身の優越感も得られるのである。」

「しかし軍国主義の重圧はいつでも容赦なく我々の頭上にのしかかって来た」(P17)

「およそ日本の国が外的に屈服するなどとは、到底考えられないことだったのだ。日本は神の国である。たとえ神風がふかなくても必ず日本は勝ったはずである。それを「どうなっただろう」などと疑うのは日本国民としてあるまじき態度だった。・・・それはこの時代の常識だと言ってよかった。」(P50)

「とにかく現人神として崇め奉られ、厚い紫のカーテンの奥に隠されていた不思議な存在、「天皇」が初めてまいくの前に立った」(P63)


敗戦直後、朝鮮の国旗あちこちで掲げられ愛国歌がうたわれる様子(P66~P69)

「新京、奉天満州)から婦人と子供ばかりぞくぞくと無計画に汽車に押し込まれ・・・」(P73)

「朝鮮を植民地化した日本政府は京城朝鮮総督府を置き絶対的な権力を握っていた。しかし反日、抗日が後を絶たなかったので、最初は過酷な弾圧政策をとったが、後には同化政策へと転換して行った」(p89)

「群主や面長と言った首長には朝鮮人が起用されていたが、群庁の内務主任、警察署長、普通学校(朝鮮人小学校)の校長、郵便局長などはすべて日本人であった。その他、登記所長、刑務主任としての警部補、巡査部長1名、巡査数名、普通学校教諭数名、重要な金融機関である金融組合理事、穀物検査員などに日本人が当てられ、反植民地運動ににらみをきかす構造になっていた。こうした日本の役人たちは普通2,3年ぐらいで強制的に転勤させられていた。それには転勤による手当の支給、昇任などの恩典と、現地人との癒着を防ぐ意味とがあったものと思われる」(p89)

「大部分の日本人は役人だったから頻繁に転勤があり・・・」(p89)

「日本人は支配者から敗戦国民に転落して流民となり・・・」(p92)という状況の中で、


朝鮮人生徒の優秀さ、勤勉さに驚かされたという」(p95)

岩下安平校長は谷山→長連→殷栗で

「支配者と被支配者という関係を超えて信頼関係を築き得たことが」(P95)

「殷栗は鉄鉱石の産地」「鉱山は金山浦」「富田儀作が鉱山の持主」(p96)
「鉱山労働者の子弟のために学校を」(p97)

「当時朝鮮の金持ちはほとんどが大地主であったが、彼らは自分の土地を担保にして銀行から金を借り、穀類を大量に買いつけて大きな倉庫にしまっておき、半年ぐらいの間値上がりを待ってうり、利鞘をかせいだのであった」(p99)

小作人は・・・ふつうはその年の収穫の半分を地主に渡し・・・・」(p99)

「一坪=21銭」「退職金が480円、月給が115円」(p99)

「(真鍋さんは)日本人学校の生徒の中では唯一の朝鮮語を話せる生徒であった」(p101)

朝鮮人の警官の中には襲撃を受けたものが何人かあった」(p101)
「戦時中は日本全体が食料不足に悩まされたから、農家から食料を供出させ、全国に配給したのであった。」「日本政府の権力をかさに着て、過酷な供出を強要した者があった」(p101)

「戦争末期には連合軍は短波放送などを通じて、朝鮮半島における日本の植民地支配の終焉や韓国の独立などを伝えていたようである」(P114)

南浦では8月16日には、各所で朝鮮の国旗が掲げられ、韓国愛国歌が盛んに歌われていた。・・・北緯38度線を境にして、南はアメリカ軍、北はソ連軍の軍政下にはいることが広く知られるようになっていた。」(P114)

民衆は戦後すぐに日本に迎合的であったらしい安を襲った。ー財産家で長連の金融組合の理事(P115)

「近所の朝鮮人が心配して見に来てくれた」(P116)

「戦争中に南山に建てられた神社が火をつけられて炎上した。総督府の命令で朝鮮各地に神社が建てられた」(P116)

「神社に放火したり、桜の木を傷つけたり」(p117)

「警察は機能を失っていたので、土地の朝鮮人有力者たちが、「警衛隊」を組織・・・」
町内放送設備で「日本は戦争に敗けて朝鮮は独立するが、節度は守らなければならない。日本人に危害を加えたり、日本人の財産を奪ったりすることは慎まなければんらない」という趣旨で繰り返し放送されたと言う。(P118)
 
 
京城でも敗戦後の引き揚げの際の混乱は少なく10円以上は持ち帰れなかったようだが、襲撃される事もなかったようだ『ある朝鮮総督府警察官僚の回想』より「怨みに報いるに徳を持ってす」と述べた蒋介石のような儒教的考え蒋介石 『暴を以て暴に報ゆる勿れ』 白揚社朝鮮半島にも脈づいていたのだろう。
 
「「朝鮮」とか「朝鮮人」という言葉が、日本人の間で差別用語のような使われかたをするようになったのはそのためであったかもしれない。」
(P121)

「太平洋戦争中には「大東亜共栄圏」という言葉が盛んに使われたが、その理想として「八紘一宇」という古い言葉が持ち出された。八紘すなわち世界中を一軒の家のようにするという意味で、「世界は一家というようなものであるが、その一家の中心となすもの、すなわち家長は天皇であり天皇の恵みの下に万国が仲良く暮らすということは、日本を宗主国とした世界国家を造ることを意味し、世界への覇権を宣言しているようなものである。しかしそれではどこの国民もなっとくしないから、当時西洋諸国の植民地支配を受けていたアジアの国々を解放独立させるという主張もしなければならなかった。」「そうなると朝鮮はどうするのだ、という矛盾が生じる。かつて抗日独立運動を徹底的に弾圧した過去をどう弁明するのか?」
「小学校で徹底した日本語教育をしたりした」
「若い朝鮮人朝鮮語を話す事はできたが、ハングル文字を読み書きする事はできなくなった。だから終戦後朝鮮で造られた教科書も日本語で書かれていたのであった。」
(P121)

 
ハングル文字を読み書きする事はできない人たちがこの時代に量産されていたようだ。
「ハングルを抑圧した」という韓国・朝鮮の人たちの抗議は主にこの辺りの事を言っているのだろう。しかしそれ以前に日本人の中には、朝鮮語が分からない人たちが多くいた(p101)朝鮮に行きながら朝鮮語が分からないという事は友人にはとてもなれないという事だろうし、小学校から大学まで教師たちは朝鮮語で教えず、日本語で教えたのだという事を意味している。やがて「小学校で徹底した日本語教育をした」(p121)
こうして「当時の韓国人の大多数は日本語をよく知っていた。」(P4)という事になる。

「・・・・極端な弾圧政策は緩められたので、抗日運動も独立運動もやがて深く沈潜し、あまり顕著には表に現れなくなった」(P122)

総督府地方自治体の長には朝鮮人をあてるようにした。ただし郡長には日本人の内務主任を置き、警察署や学校の長には日本人をあててにらみを利かすようにした・・・・」(P122)

朝鮮人の中にも総督府の権力に迎合して利益をむさぼろうとした者もいたし、日本に学び、日本の権力組織の中にいながら、朝鮮人としての誇りを失わない人々もいた。」
総督府は表面上はともかく心底では朝鮮人を信用していなかった」
「日本人が朝鮮人と親しくなることを好まなかった。」
「日本人の役人のほとんどは朝鮮語が出来なかった。」
朝鮮人学校の日本人教員さえ朝鮮語ができない人が大多数をしめるようになった。」(P122)

「北部面の面長は群衆に襲われ殴られた。戦時中彼は棒をもって農家を見回り、穀物を探しだしては強引に供出させたのであった。総督府は彼を表彰したかもしれないが、農民は心から彼を憎んだ。」

「日本人も襲われなかったわけではなかった」(P123)

「だんだんと過去の清算をさせられることになった」(p124)


 
 
 
(続く)