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【強姦から見た大東亜戦争史】 『岡村寧次大将資料(上) 戦場回想編』から見た戦地強姦罪


『岡村寧次大将資料(上) 戦場回想編』
(岡村寧次著 原書房)の該当部分を提示しておこう。


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(P282)


ここで理解しておかなければ、ならないのは
「戦地における強姦は、陸軍刑法においても、”親告罪”であった」
という事である。

親告罪”というのは要するに被害者が名乗り出なければ罪にならなかった、という事だ。
これはもう戦場では、野放しという事である。

例えば、南京に向かって進行、占領の過程で日本軍にはたくさんの強姦があった事が知られている。

岡村大将自身がこう書いている。


上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
一 南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。


皇軍が民家に入り娘を探し、強姦したような場合、強姦された娘やその親が訴えるためには、どの部隊のどの人物か、特定しなければならないが、移動中の軍に追いつくだけでも、困難であり、戦闘中なのだから、敵とみなされ気の立った将兵に殺されるのが落ちだ。そもそも親告罪の場合、現代でさえ訴え出る女性は少なく、泣き寝入りする例が多いのは、数百件もの余罪がありながら数人しか訴え出なかったスーパーフリーの実例が示している。ましてや戦場での強姦を皇軍に訴え出る女性がいただろうか?

たっぷりと恐怖を味わい、強姦された農民の娘たちが、犯人を特定し、移動する皇軍に追いつき、訴えてくるとは思えない。(もちろん、治安維持が始まると憲兵隊が活動し、その憲兵に訴える者もいたのだが、それはごく一部)

そこで彼らは、皇軍に憎悪を燃やし、八路軍共産党軍)に協力したり、また闘うために自ら八路軍に入ったりしたに違いない。中国では匪賊さえ強姦はめったにやらなかったからだ。

日中戦争が始まるまで、中国では蒋介石の国民党に人気があった。ところが、日中戦争が始まると徹底抗戦をした毛沢東共産党に人気が集まり、八路軍の人数は10倍にも膨れ上がったという。これは、悪辣な業をする皇軍への憎悪を餌としていた。その悪辣さの一つが”強姦”であった。中国が共産化された原因の一つとして、大日本帝国による侵略と強姦、略奪などの悪業があったのである。

この様子は、ベトナム朝鮮半島でも同じであり、これらの地域の共産党は日本軍に抵抗しながら、人望を得、力を蓄えて行った。




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(p283)


阿南を「正義の士」というのは、岡村大将の主観だが、1943年・・・つまり敗戦する2年前になって初めて「戦地強姦罪」が施行されたのは客観的な事実である。

岡村大将が、第11軍の司令官となったのは、38年6月。日中戦争のさなかである。
また、北支方面司令官となったのは、41年7月であり、44年11月には支那派遣軍総司令官となり、皇軍侵略戦争を司令し、敗戦後は戦後処理にあたっている。



この「岡村寧次大将資料」には、岡村大将が自分や阿南の責任を逃れるために書いている部分もあるように思える。

「第三編 北京雑感」より

 十八 河南作戦雑感

(ハ) 治安良否と中国娘の態度

 私は華中、華北の戦場で、日本兵が昔日の神兵ではなく、掠奪、強姦、放火等の非行が少くないことを知り痛嘆した。このことは第四篇において数多くの実例を掲げて詳述するつもりであるから、ここには記述を省略するが、ただ次の一事だけを特記する。

 私は華北、華中の前線を頻繁に巡視して、その地方の治安良否(日本兵の風紀をも含め)の程度を中国娘の眼に見える関係で三とおりあることを総合的に発見した。

第一、絶対に娘の影を見ない。日本兵を恐れている証左で、「治安不良」

第二、私どもの自動車、トラック通行を物珍しげに遠く家の窓から眺めている。「治安稍良」

第三、前項の場合、自家の門前に出て眺めている。日本兵の往来する街頭を中国娘が平気で歩いている。「治安良好」

(「岡村寧次大将資料」(上) P280)



谷寿夫中将最後の公判、死刑を宣告された。
 いわゆる南京暴虐事件は、中国側でも最も重大視していた。当時南京に居住していた外国宣教師等が、実際に視た暴行の状況を詳細に綴った書物なども欧州で刊行され、その中国語訳書を終戦後殊更に私の許へ届けたりして、南京事件は許さないぞとばかりの示唆があった。中国側も、谷寿夫の第六師団よりも中島今朝吾第十六師団の方が遥かに罪状が重いことを知っていて、わが連絡班に対しても、中島師団長、同師団参謀長、同各団隊長《これらの氏名は先方は既に調査済であった》の所在、場所を調査して報告せよと命じてきたこともあったが、中島は既に死亡、その他団隊長等の所在は当地当班では調査不可能と答えておいたことがある。
 罪の深い第十六師団関係は罰せられず、ほとんど罪のない方を代表して谷中将のみ極刑に処せられる。感無量                        1947年3月10日の日記)


「第四編 武漢攻略前後三                         戦場軍、風紀今昔の感と私の覚悟                    私は、従来書物によって日清戦争、北清事変、日露戦争当時における我軍将兵の軍、風紀森厳で神兵であったことを知らされ、日露戦争の末期には自ら小隊長として樺太の戦線に加わり、大尉のときには青島戦に従軍し、関東軍参謀副長および第二師団長として満州に出動したが、至るところ戦場における軍、風紀は昔時と大差なく良好であったことを憶えている。                      それなのにこのたび東京で、南京攻略戦では大暴行が行われたとの噂を聞き、それら前科のある部隊を率いて武漢攻略に任ずるのであるから大に軍、風紀の維持に努力しなければならないと覚悟し、差し当り「討蒋愛民」の訓示標語を掲げることにした、それはわれらの目的は蒋介石の軍隊を倒滅することであって無辜の人民には仁愛を以て接すべしというに在った。                     上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、抗州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。      一、南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。                            一、第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。 註 後には荷物運搬のため俘虜を同行せしめる弊も生じた。   一、上海には相当多数の俘虜を収容しているがその待遇は不良である。                                     一、最近捕虜となったある敵将校は、われらは日本軍に捕らえられれば殺され、退却すれば督戦者に殺されるから、ただ頑強に抵抗するだけであると云ったという。                        七月十五日正午、私は南京においてこの日から第十一軍司令官として指揮を執ることとなり、同十七日から第一線部隊巡視の途に上り、十八日潜山に在る第六師団司令部を訪れた。着任日浅いが公正の士である同師団長稲葉中将は云う。わが師団将兵は戦闘第一主義に徹し豪勇絶倫なるも掠奪強姦などの非行を軽視する、団結心強いが排他心も強く、配営部隊に対し配慮が薄いと云う。    以上の諸報告により、私はますます厳格に愛民の方針を実行しようと覚悟を決めたことであった。                     (『岡村寧次大将資料』(上) P290~P291)
「第四編 武漢攻略前後」より                         十七 軍紀、風紀所見(その四) 十三年十月十日、蘆山南側星子の兵站司令官友清大佐の報告によれば、同地附近の村長連名を以て殺戮、強姦、放火、牛掠奪の四件禁止を要請しこれ等の条件容れらるれば、他の要求には凡て応ずべしという嘆願書を提出してきたとのことなので、憲兵を急派して調査させたところ既に強姦だけでも二十件あるも犯人未検挙、偶々強姦現行直後の者を捕えたが、その所属隊長は、該犯人が歴戦功績者だとの口実を以て釈放を強請したという。この口実は当時到る処で行われたことである。                                             私の愛民の方針は、なかなか徹底しなかったが、昭和十四年以後はこうした犯罪は漸く減少した。二、三年後は中国南北戦線を通じ激減したが、その最大の原因は軍紀刷新努力の結果と言わんよりも、寧ろ下士官兵の素質が老兵は殆んど皆無となり、現役兵と若年補充兵のみとなったからであろう。後者は未だ社会の悪習に染まずに出動したからであろう、と私は思ったことである。           (「岡村寧次大将資料」(上) P314~P315)
一つは、一九三八年六月に第一一軍司令官として中国戦線に赴いた岡村寧次の記録である。一九五四年六月に厚生省引揚援護局が作成したこの記録、『岡村寧次大将陣中感想録』(靖国偕行文庫所蔵)には、三八年七月一三日のこととして、次のような記述がある。
 中支戦場到着後先遣の宮崎参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州機関長萩原中佐等より聴取する所に依れは従来派遣軍第一線は給養困難を名として俘虜の多くは之を殺すの悪弊あり、南京攻略時に於て約四、五万に上る大殺戮、市民に対する掠奪、強姦多数ありしことは事実なるか如し。
 なお、この記録の表紙には、「一切転載並公表を禁ず」とのただし書きが付されている。・・・・

笠原十九司,吉田裕著『現代歴史学南京事件』 柏書房