右派の「慰安婦」パネル展などが決して書かない事
1994年1月24日。オランダの外相P・H・コーイマンスは、オランダ下院議長に日本の慰安婦問題に関する報告書を提出した。なんせオランダには、たくさんのバタビアBC級戦犯裁判の資料が眠っていたからだ。第2次世界大戦当時、オランダはインドネシアを植民地としていた。そのインドネシアにはたくさんの石油が埋蔵されていたので日本軍は、太平洋戦争と共に、石油を求めてインドネシアを侵略した。
瞬く間に追い散らされたオランダ軍に変わって、日本軍とその配下の日本人州長官がインドネシアを支配するようになった。当初、「アジアの解放者」として日本軍を歓迎したインドネシア人であったが、その期待はすぐに裏切られることになった。
横暴ではあったが、まだ節度があったオランダ人にとって変わったこの新しい支配者は、はるかに横暴で、残忍、好色であった。賃金も払わないで男たちを「ロウムシャ」と呼び辛い労働に駆り立てたかと思ったら、女たちは強姦され、その中でも若く美しい娘たちは「イアンジョ」と呼ばれる暗い場所で毎日のように強姦される運命が待っていた。
コーイマンスの報告書によると、タラカン、メナド、バンドン、パダン、フロレスの各所で軍による組織的集団強姦事件が発生したが、その中でもブレラで発生した事件は、20余名のヨーロッパ女性を2軒の家に監禁するという悪質なものだった。3週間の間そこに連隊が通りかかるたびに一日数回に渡って軍人に強姦された。
しかしこれはまだほんの序の口にすぎない。この報告書によれば、1944年になると、さらに凶悪な組織的集団強姦事件が発生するようになる。しかもそれは、軍の将校によって発案され、州長官や警察を支配する憲兵隊によって実行されるのだ。44年1月、マゲランでは、憲兵が選んだ選んだ4人の未成年者を含む13人の娘たちが暴力的につれていかれ強姦された後、売春を強制された。その頃、別の将校達はヨーロッパ人を拘留していた抑留所に目をつけた。36人の女性が連れ出され、スマランの「イアンジョ」で監禁され集団強姦された。2人の若い女性は逃げようとしたが、連れ戻され、一人は自殺を謀り、一人は気が狂ったふりをして精神病院に入った。一人は妊娠中絶している。同様な事件がフロレス、ボンドウオソ、スマトラ、パダンなどでも引き起こされた。
・・・・・・・この報告書は、1994年に公表され日本政府にも送られており、2007年には米国下院決議やカナダ決議、欧州決議などに広範な影響を与えた。しかし安倍政権はこれを完全に無視して「強制連行の資料は無い」と閣議決定し、右派勢力はその存在さえ知らないありさまである。
右派のある者の主張によると、こうした事件(彼らはスマラン事件以外知らないようだが)は「一部の不届き者が軍紀を犯したのだ」という。しかしこの主張は見当違いである。なぜなら、その軍紀を犯した者を軍の上層部は厳罰に処していないからである。
もしブレラで最初にかかる事件が起った時に、首謀者を厳罰に処しておけば、後に同様な「強姦+監禁、慰安婦」化事件が蔓延する事はなかったであろう。事件を引き起こしたのは、将校や憲兵たちだが派遣軍首脳部がそれを罰することはなかった。収容所から女性を連れだせるほど権限がある軍人による犯罪行為が軍の命令系統を使って実行されたにも関わらず、処罰して軍紀を守らせる事を怠っていたのである。こうしてその後、集団強姦「慰安婦」化事件が何度も繰り返される事になるのだ。
スマランでの慰安所はわずか2カ月間で閉鎖されたが、やはり罰せられる事が無かったので、その同じ場所で同じような「慰安婦状態」組織強姦事件がすぐに引き起こされている(フロレス事件)。日本軍の憲兵隊はあらかじめ目をつけておいた20人の娘を連行し、《スマラン倶楽部》に放り込んで強姦した後、17名をフロレスに連れて行き、慰安婦にしたのである。これらの慰安所は強姦所であったと言える。
ゆえに責任はブレラ、
タラカン、メナド、バンドン、マゲラン、スマラン、パダン、フロレス
、ボンドウオソ、スマトラ・・・などの事件を引き起こした実行犯のみならず、有効な対処をしなかった日本軍首脳部にもあったのである。
「慰安婦パネル展」の主催者は、こうした事例を完全に無視し、「慰安婦」問題を「日韓関係の問題」へと置き変えたいようだが、もちろんそうではなく、慰安婦問題は日本軍が進攻したあらゆる国と地域で引き起こされた不快なできごとであり、著しく女性を人権を冒涜した事件を内包している。朝鮮半島からの徴集の場合も、多くは騙されて連れて行かれ(これは拉致である)、あるいは人身売買されており、『性奴隷とされていた』と言えるであろう。