『慰安婦性奴隷説を明快に否定 「こんなでっち上げを作ったのは日本人だ」と訴えるソウル大教授に学問的良心を見た』という記事を書いている。
内容は簡単なもので、西岡力の解説によって、李栄薫(イヨンフン)教授が「性奴隷説を否定した」というのだ。
典拠としているのは、おそらく『月刊朝鮮』のこれだろう。
サンケイ好みの人物ではあるが、今回の発言が確かなら、李栄薫はむしろ、”良心の乏しさ”を露呈していると言えるだろう。
李栄薫は2009年(今から7年前)の著作『大韓民国の物語 : 韓国の「国史」教科書を書き換えよ』http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010053725-00 の中で、「慰安婦=性奴隷説」を唱えている。
その部分を抜き出しておこう。
(p148)
「当時の法に照らしても、人身略取と就職斡旋詐欺に該当する重大な犯罪でした。」
「日本軍と総督府が共謀した人身略取の犯罪行為」
「慰安所の女性たちは、行動の自由がありませんでした」
「女性たちは性奴隷に他なりませんでした。」
と李栄薫が自分で書いているのが分かるはずである。
ところが今回はこう述べたという。
「なるほど慰安所の女性をどのように規定すべきか。多くの学者たちが性奴隷とは主張を受け入れている。移動の自由がない監禁生活、日常的な音、 正当な報酬を受け取っていない点などを根拠に提示する。ただし、複数の資料を総合的に検討した結果、これはかなりの部分根拠が不十分である。」「「慰安婦」は、「奴隷」の本質的な定義とはまったくそぐわない。」
という。
すると自分は根拠が不十分なまま、「日本軍と総督府が共謀した人身略取の犯罪行為」「行動の自由がありませんでした」「女性たちは性奴隷に他なりませんでした。」と主張したのだろうか?
とんだ変節漢というしかない。
また李栄薫があげる奴隷定義は、自分で造ったマイ・定義にすぎない。我々が使う奴隷定義は、1926年の奴隷制条約における定義である。国際的な奴隷要件にあてはめないで、どうして奴隷かどうかが分かるのか?勝手に自分で「マイ定義」を定め、それを否定している。ここで解説している西岡力と同じやり方である。http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64966340.html?type=folderlist
ちなみに、自分で書いたものを反古にして、変節して行くというのも、西岡と同じである。http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64739279.html
なかなか狂った軸を持った人である。
もちろん、学者だからと言って見解を変えることはあるだろう。
だが、それには十分な根拠が必要であることは言うまでもない。すでに既知の資料である文玉珠さんの口述資料をまとめた『ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』(森川万智子、1996年)や『日本軍慰安所管理人の日記』は、自分の過去の著作の意見を翻す根拠資料にはならない。
『ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』では、文玉珠さんが慰安婦が嫌で、隙をみて逃げ帰ったことも語られており、廃業の自由があったなら、どうして逃げる必要があったというのか?また廃業する場合、全て借金を返さなければならなかった事は、廃業の自由が無かったことを裏付けており、さらに軍の許可を必要としたということは、慰安婦が軍に支配されていたことを示している。それは『日本軍慰安所管理人の日記』でも確認されているのだ。
ゆえにこの『日本軍慰安所管理人の日記』 を発見した安秉直教授は、日記を研究した解説で「このような軍慰安婦らの置かれていた境遇を「性的奴隷状態」と捉えてもさしつかえないのではなかろうか」と結論している。
安秉直教授の解題の最期の部分を張り付けておく。
<クリックして拡大を押すと大きな文字で読めるよ>
「このような軍慰安婦らの置かれていた境遇を「性的奴隷状態」と捉えてもさしつかえないのではなかろうか」
李栄薫教授の日帝時代の経済論についてはこれまで特に言及してこなかった。私の専門ではなく、言葉の壁もあり、さらに膨大な一次史料に目を通すのが億劫だったからである。しかし学者としての良心が乏しいことが判明したがゆえに様々な論証上のトリックがなされている可能性もあるものとみて今後しばらく調べてみようと思っている。
追記)
しかし、もしそういう事があれば本人が書くべきだが、実際にはそんなことは有り得ない。
言論の自由に関しては日本の方がはるかに厳しい状況である。慰安婦問題について書いた元朝日新聞の記者たちに、ネトウヨを含む右翼勢力が大量の脅迫文を送ったり、街宣車で騒いだりする結果、大学を辞めさせられたりしているが、韓国では抗議はなされても、辞めさせるところまでは行かないからである。
あのデタラメな朴裕河でさえ、辞めさせられたりはしていない。