安倍元総理の妄言
安倍氏の「河野談話見直し」で波紋 ネットは快哉、韓国メディアは反発
J-CASTニュース9月15日(土)18時56分
自民党総裁選が2012年9月14日に告示され、安倍晋三元首相(57)、石破茂前政調会長(55)、町村信孝元官房長官(67)、石原伸晃幹事長(55)、林芳正政調会長代理(51)が立候補した。各候補者の主張には大きな差がないともいわれている今回の総裁選だが、旧日本軍の従軍慰安婦問題をめぐる「河野談話」については濃淡が分かれた。
石原氏が「よくできている」と肯定的な評価だったのに対し、元首相でもある安倍氏は「新しい談話を出すべきではないか」と踏み込んだ。
「強制連行を事実上証明する資料はなかった」
9月14日に行われた共同記者会見では「尖閣諸島」や「靖国神社」をはじめ、「河野談話」にまで質問が及んだ。韓国の李明博大統領による島根県・竹島上陸や、天皇陛下への謝罪要求などで反韓感情が高まり、「河野談話」を見直すべきだとの声も出ているためだ。しかし、「河野談話」は、過去の自民党政権時代につくられて、その後もずっと踏襲されてきた政府見解に絡むデリケートな問題だけに慎重な回答が多かった。
石原氏は「河野談話はある意味すごくよくできていたと思う。国が狭義の意味で行ったという証拠は見つからなかったけれども、あの談話を読む限りでは広義においては、そういうこともあったのではないかとも伺えるような文面になっている。そこに知恵があったと思う」と肯定的に評価した。ただし、「大統領が変わるごとに持ち出されてしまえばきりがない。そこに成熟した日韓関係ができてない」との言葉も加えている。
町村氏は「河野官房長官のひとつの知恵として出されたものだと思う。全面否定するつもりはない」と回答。大統領が変わるごとに問題が蒸し返されることにも触れ、「これではエンドレス。彼らにさらに外交的自制を強く求めていくことなくして、いくら談話をだし続けても問題は解決しない」と述べている。
そんな中、踏み込んだ回答をしたのが安倍氏だ。
「河野談話の核心をなすところは強制連行。朝鮮半島において家に乗り込んで強制的に女性を人さらいのように連れて行く、そんなことは事実上証明する資料はなかった。子孫の代に不名誉を背負わせるわけにはいかない。新たな談話を出すべきではないか」
と談話の見直しを明確に主張した。
安倍氏は首相当事の2006年10月、国会答弁で河野談話を踏襲する考えを示していた。しかし、2007年3月に「強制性について証明する証言や裏付けるものはなかった」と発言し、「狭義」の強制性を否定したはずが「広義」の強制性まで否定していると解釈され、韓国や中国、アメリカなどから非難を浴びた。その後は元慰安婦に「おわび」を表明して、河野談話の踏襲を繰り返し強調していた。今回の発言も「狭義」の強制性を証明するものはないという趣旨の発言だが、「新たな談話」というところまで踏み込んでいる。
「河野談話の核心をなすところは強制連行。朝鮮半島において家に乗り込んで強制的に女性を人さらいのように連れて行く、そんなことは事実上証明する資料はなかった。子孫の代に不名誉を背負わせるわけにはいかない。新たな談話を出すべきではないか」
と述べる安倍元総理だが、「強制連行」などと一体どこに書いてあるのだろう?
河野談話の中には「強制連行」などという言葉は存在していない。
さらには「朝鮮半島において家に乗り込んで強制的に女性を人さらいのように連れて行く」・・・などと言う事はどこにも書かれておらず、談話の資料として使われた形跡もない。
河野談話においては、全て政府関係の資料が調べられ、これと面会した元慰安婦16人の話を根拠においており(未公開)、一般の元軍人たちが書いた戦記などはほとんど調査されたにしてもほとんど参考にした様子がないからである。
公開された資料にも吉田清治の『私の戦争犯罪』は、参考にはされていないのである。
〔河野談話〕では「強制性があった」と書いてあり、これは当たり前である。
例えば、慰安婦が住む慰安所に夜間、兵隊が歩哨に立っていたとしよう。夜間に逃げ出そうとした慰安婦を捕まえて連れ戻した。
すると、それはもう「強制性があった」という事であり、しかも「軍の関与を明白」にしているのである。
慰安婦は「籠の鳥」であった
実際に歩哨が立っていた慰安所もあり、ほとんどの慰安所では、慰安婦の外出は、決められた範囲内以外は禁止されていた。フィリピンのイロイロ市の慰安所では、慰安婦の散歩は朝の8時から10時までと決められており、それ以外の時間の外出は厳禁されていた。さらに逃亡防止のために散歩地域も狭い「公園内」と指定されていた。
江戸時代の公娼制度下の吉原遊郭では、出入り口は厳重に閉じられ、役人、やくざものや用心棒がその門を守っていた。万一逃亡すると厳罰が待っていた。罰したのは幕府であった。
やがて江戸時代が終ったが、明治以降の公娼制度の下で、業者は売春婦の外出を制限し、逃亡防止のために用心棒を雇っていた。こうして奴隷状態にしていたのである。
それと同じように軍慰安婦においても、大きな慰安所町では、憲兵たちが巡回に来て、逃亡を防いでいたのである。元慰安婦の洪愛珍さんは、逃亡したが、憲兵隊につかまってしまい連れ戻されたという。(『中国に連行された朝鮮人慰安婦』P54より)
騙されて慰安婦にさせられた元慰安婦の宋神道さんも、何度も逃亡を試みているが、所持金はなく、中国語もわからず、逃亡を諦めた・・・と言うが、その小さな身体には、慰安を拒否したという理由で、軍人につけられた傷が無数に刻まれている。また、畳に軍刀を突きつけ、思い通りにさせようとした軍人もいたことが多くの証言からもわかる。(『従軍慰安婦をめぐる30のうそと真実』P33より)
こうして、日本軍慰安婦の「強制性」はあきらかに認められるのである。