河野談話を守る会のブログ2

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愛国ショービジネスと城田さんの残した言葉

         愛国ビジネスとしての「慰安婦」討論ショー

正直言って田嶋陽子氏に同情する気にはなれない。こういう番組に出るのが間違いなのだ。慰安婦問題はバラエティー番組で語れるような性質のものではない。また反対派ばっかりの場所で討論すべきものでもない。

それにしても酷いね。

田嶋氏が話している途中で男が 「・・・デタラメな事をベラベラしゃべってるんじゃないよ!」 とドスのきいた怒声で発言を遮っている。慰安婦問題を否定する人々はみんなザイトクのように品の無い人間になって行くようだ。

いったいこれは誰だろう?

出場者は以下のメンツである。

たかじんのそこまで言って委員会(2014.5.11)     
【司会】
 山本浩之フリーアナウンサー
【女性側パネラー】
 雨宮処凛(作家)
 大高未貴(ジャーナリスト)
 河合薫(健康社会学者)
 田嶋陽子(元参議院議員
 松浦芳子(東京都杉並区議会議員)
 三木圭恵日本維新の会衆議院議員
 吉木誉絵(女優、作家、神主)
 山本優美子(市民団体「なでしこアクション」代表)
【男性側パネラー】
 竹田恒泰慶應義塾大学講師)
 宮崎哲弥(評論家)
 加藤清隆(政治評論家)
 井上和彦(軍事ジャーナリスト)
 津川雅彦(俳優)
 桂ざこば(落語家)
【テーマゲスト】
  藤岡信勝拓殖大学客員教授










こういうメンツで、何か話しても、声がかき消されてしまうだけだろう。ほとんどが反対している人達だからだ。当たり前だが、討論では人数をなるべく合わせて、両論の参加者を同じくらいの割合にして、できるだけ均等に話せるように気をくばる司会者が必要である。

もちろん少人数でやるべきだ。
3人対3人くらいがいいだろう。

しかしたかじんの番組にそれが期待できる訳がない。


さらに歴史論争になっているのだから、互いに一次史料を持ち出さなければ話しにならない。歴史論争は基本的にテレビでやるような性質のものではないが、それなりに工夫すればできるかも知れない。

まず、パソコンを画面につないで出場者がいつでも自分の資料をテレビ画面に提示できるようにすべきである。それから、それぞれのテーマに考慮時間が必要なので、収録は長くなり、ゆえに観客はいてはいけない。そしてテーマがテーマなのだから、収録にはかなりの時間が必要である。
そうすれば少しは格調高いものになるだろう。

この番組で右派が主役に抜擢したいらしい大高氏は「自分は調べた」とか「読んだ」とか「見た」とか言ってるだけで、話しに内容がある訳ではない。

動画のコメントでは、ネトウヨたちが「大高氏が論争で圧倒した」と書きこんでいる。しかし聞いてみれば分かるが、大高氏が長く話していても邪魔は入らないが、田嶋氏が話しはじめるとすぐに邪魔が入っている。

例えば、
大高氏に対して司会者は「そのパネルはどこにあったんですか?」と尋ねてその話の内容をさらに語らせようとしている。(4:15あたり)

さらに大高氏に「城田さんは性奴隷だと認識されていたのか?」と名指しで問いかけている。(4:25辺り)
大高氏は別に城田さん研究のスペシャリストではないだろう。

ところが田嶋氏に対しては、4:45秒あたりで、「城田さんの言葉があるんですけどいいですか?」と述べているにも関わらず、それを遮っている。その後何度も「城田さんの言葉」を伝えようとしているのに、司会者と出場者が結託し、とうとう最後までその「城田さんの言葉」を発言させていない。

卑劣である。

このようにして、極めて不公平な「論争」という名のショーになってしまっている。

討論とは言えない、演出されたただのショービジネスである。最近流行の「アイコクおショウバイ」ではネトウヨに気分のいい嘘を広めているが、そういう商売の一つなのだろう。この商売では、司会者を含むたくさんの参加者が「反日」「左翼」「朝鮮」のレッテルを張る相手をやり込めるという演出になっているようだ。

こうしたショーに出場しても、慰安婦問題の解決には何の役にも立たない。


さてでは、田嶋氏がここで述べようとして、述べられなかった城田さんの言葉はどんなものだったか?

多分、この言葉だろう。




城田すず子著 『マリヤの賛歌』








                 城田さんの残した言葉

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「兵隊さんや民間人の事は各地で祭られているけど、中国、東南アジア、南洋諸島アリューシャン列島で性の提供をさせられた娘たちは、さんざん弄ばれて、足でまといになると、放り出され、荒野をさまよい、凍てつく原野で飢え、野犬か狼のエサになり、土にかえったのです。軍隊が行ったところ、どこにも慰安所があった。看護婦は違っても特殊看護婦となると将校用慰安婦だった。兵隊用は一回50銭か1円の切符で行列を造り、女は洗う閑もなく相手させられ、死ぬ苦しみ、なんど兵隊の首を絞めようと思った事か、半狂乱でした。死ねばジャングルの穴に放り込まれ、親元に知らせる術もない。それを私は見たのです。この目で、女の地獄を・・・。
40年経っても健康を回復できない私ですが、まだ幸いです。1年ほど前から、祈ってると、かつての同僚がマザマザと浮かぶのです。私は耐えきれません。どうか慰霊搭を立ててください。それが言えるのは私だけです。」
石の叫び
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上記は城田さんが1984年に、「かにた婦人の家」の深津文雄牧師に宛てた告白の手紙からの抜粋である。
城田さんが書いた『マリヤの賛歌』、1985年の改訂版のあとがきでは、深津文雄牧師がこの手紙について書いている。深津牧師は、当時かにた村の施設長であり、城田さんとはごく親しくしていたらしい。歩行が困難だった城田さんはしばしば手紙を書いており、91年8月14日には、金学順さんが名乗り出たのを「よく思いきって名乗ったわ・・・」と喜んでいる。また城田さんは慰安婦たちが奴隷のような境遇の中を苦しんでいた事を、身をもって知っていたので、何度も慰安婦の霊を夢をみてそれを十字架の絵に書いている。WAM『中学生のための慰安婦展カタログ』には写真が添えられている
この手紙はかにた村にある「慰安婦の碑」がどのような想い、感情によって造られたか?を教えてくれている。
城田さんの絵に描いたイメージに沿う形で、85年には木の慰霊碑が造られ、やがて86年には石碑が造られた。
かにた村では毎年8月15日にはこの慰霊碑の前で鎮魂祭が行われている。それは城田さんに訪れた啓示体験であったと言えるだろう。

その苦難に満ちた人生の中で、やがて神と出会った城田さんの人生。
そして、青春を破壊され、戦場で散って行った慰安婦たちの無念の涙を夢で見た城田さんは、慰安婦の碑を造らざるを得なかった。「慰安婦の碑」を造る事は、城田さんが信じた神が彼女に与えた崇高な使命だったのかも知れない。

ところが大高未貴氏はこの「石の叫び」に対して、文句をつけ
『正論』5月号で「元日本人慰安婦を「性奴隷」にした嫌らしい面々」という記事を書いている。
自分が見せてもらえなかったので、「存在しないんじゃないか」という邪推をしているようだ。他の可能性は考えないらしい。
単純だなーと言うしかない。
これについては、次回に詳しく述べたいと思っている。