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余舜珠「日帝末期の朝鮮人女子勤労挺身隊に関する実態研究」2頁の翻訳


以前紹介した尹明淑氏の著作『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人慰安婦明石書店2003年)にこんな記述があった。http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64372378.html

官憲や警察による徴集は、強制や暴力をともなう場合が多かった。同時に、軍隊慰安婦であることは知らせず、「挺身隊」、女工募集や軍需工場への職業斡旋であるかのように詐欺を働いていた。「挺身隊」は、様々な労務動員の歳に用いられた言葉であり、班長や区長の「介入」による徴集の場合、より強い強制力を発揮したであろう。
第三に人員動員のための様々な戦時政策が公布されていく時代状況は、官憲の「介入」による軍隊慰安婦の徴集のみならず、民間人徴集業者による徴集にも巧みに利用された。日中戦争後、朝鮮民衆のあいだでは、官憲が戦争のために未婚女性の体を犠牲にしているという「流言」が流布していた。民衆の「流言」は、マスコミとはほとんど無縁の生活をしていた朝鮮の大多数の民衆にとって、もっとも身近な情報源であった。また、「流言蜚語」「造言飛語」「不隠言動」という名で呼ばれた民衆相互の口コミは、生活実感からの「驚くほど鋭敏で、積極的な反応を示した」ものであった*37。民衆は、未婚女性の動員に対して強い不安や反感を持っていたのであり、徴集業者はこのような民衆の心理を巧みに利用したのである。
 当時の新聞には「徴用」の同意語として「供出」という用語が用いられており、一般民衆は未婚女性の動員を「処女供出」と表現していた*38朝鮮語で「処女」は未婚女性を指す総称であり、「供出」は官憲による強制的な動員を意味する言葉である。また、「挺身」という言葉自体の意味は「自ら進み出ること、自分の身を投げ出して物事をすること」であり*39、「挺身隊」という用語は、男女の区別なく用いられ、特定団体を示す語ではなかった。「挺身隊」という用語が使用され始めたのは、1940年11月13日付け『毎日新報』に「農村挺身隊」の結成が報じられた記事のようである*40。また「挺身隊」は、「婦人農業挺身隊」、医師や看護婦を対象にした「仁術報国の挺身隊」、「漁業挺身隊」、文化、商工、報道、運輸、金融、産業などの32団体で結成されたという「半島功報挺身隊」というふうに、女性動員を含む、さまざまな人的動員に対して用いられていた*41
 「女子勤労挺身隊」、「女子挺身隊」、「勤労挺身隊」、「挺身隊」、「処女供出」という言葉がそく軍隊慰安婦を指す言葉ではない。しかし、朝鮮の解放以降、軍隊慰安婦問題が社会的問題として表面化した1990年代初めでも、一般民衆が「挺身隊」を軍隊慰安婦の同義語として認識していたことは事実である*42朝鮮人のこのような認識がどこから由来したか確かではない。しかし少なくとも、当時の民衆にとって、「挺身隊」や「処女供出」は「徴用」と同義語であった。そして、「処女供出」を避けるため、家や村を離れて隠れたり、親たちは年頃の娘の結婚を急がせた。
 <表 5 - 1 >の「処女供出」という言葉から察せられるように、一般民衆の中に未婚女性の動員に関する情報が流れており、既婚女性なら「徴用」されずに済むと認識されていた。
 同表の「官憲介入」と「処女供出」欄にあるように、「国のため」の勤労動員や「挺身隊」であると脅迫されて徴集されたり、逆に、「挺身隊」を逃れることができるという詐欺で徴集されたりした。軍慰安婦の徴集は「挺身隊」の名の下で行なわれたのである。

 慰安婦の徴集は「挺身隊」の名の下で行なわれたと結論したこの文章は、ちゃんと理解できれば、今日右派論壇に蔓延している 「慰安婦と挺身隊の混同」という考えに打撃を与えるものである。
ここ1年間に間に「慰安婦と挺身隊を混同した」を針小棒大に拡大し、植村隆氏を「捏造記者」と呼び、高校生の娘さんまで巻き込む脅迫事件が引き起こされているが、それは最初からとんだ勘違いだと言えるだろう。

さて、その脚注部分がこれである。

*37 宮田節子『朝鮮民衆と「皇民化」政策』p11~p49
*38 1943年9月、女子勤労挺身隊の結成が次官会議で決定され、その内容が次のように報じられている。「女子勤労挺身隊を結成させ、供出させる」。「女子挺身隊をつくってそれぞれ緊急なところへ供出します」(強調は引用者、原著では著者による傍点)(『毎日新報』1943年11月26日、27日)
*39 新村出編『広辞苑 第四版』(岩波書店、1995年)の定義による。
*40 余舜珠「日帝末期の朝鮮人女子勤労挺身隊に関する実態研究」2頁
*41『毎日新報』1941年3月4日、9月18日、1942年3月19日、1944年1月26日。
*42 「韓国挺身隊問題協議会」(1990年11月16日発足)の名称からうかがえるように、1990年代初頭まで、韓国で挺身隊は軍隊慰安婦の同義語として認識されていた。韓国の全国紙の記事にも軍隊慰安婦のことは挺身隊という用語をもって報道された。このような認識は、日韓両国において軍隊慰安婦問題が本格的に社会問題として浮上する以前の、1980年代の韓国の歴史研究書でも同様であった。軍隊慰安婦問題は、「女子挺身隊(または女子勤労挺身隊)」の項目で記述されていたり、「女子挺身隊(または女子勤労挺身隊)」として動員された女性は、軍需工場に送られる場合と慰安婦として連行される場合があると説明されていた。あるいは、ルポや証言集などに「女子挺身隊」は「従軍慰安婦」を意味する言葉として使用されていた。このような認識から、「女子挺身勤労令」の資料が一般にも広く知られるようになった90年代初頭には、同法令が軍隊慰安婦の徴用のための法令として認識されることさえあった。(1)姜萬吉「日本軍『慰安婦』の概念と呼称問題」13頁(韓国挺身隊問題対策協議会真相調査研究委員会編『日本軍「慰安婦」の真相』歴史批評社、1997年)、(2)余舜珠「日帝末期の朝鮮人女子勤労挺身隊に関する実態研究」2頁、(3)韓百興『実録女子挺身隊、その真相』(芸術文化社、1982年)、(4)韓国史辞典編纂委員会編『韓国近現代史辞典』(カラム企画、1990年)、(5)李炫煕「今年度の韓国近現代史の争点・1992年4月~9月」199~204頁(韓国近現代史研究所『争点韓国近現代史』第1号、1992年、(6)伊藤孝司編著『証言従軍慰安婦・女子勤労挺身隊』10~72頁(風媒社、1992年)

「挺身隊」という用語は、男女の区別なく用いられ、特定団体を示す語ではなかった。「挺身隊」という用語が使用され始めたのは、1940年11月13日付け『毎日新報』に「農村挺身隊」の結成が報じられた記事のようである」

という部分の出典は、余舜珠(ヨ・スンジュ)の日帝末期の朝鮮人女子勤労挺身隊に関する実態研究」となっている。

                            
 随分昔から気になっていたのだが、今回この論文を見つけることができた。


 
慰安婦と「女子勤労挺身隊」が異なるものである事を言及すると同時に「女子勤労挺身隊」に類似した「農村挺身隊」や「国語普及挺身隊」、「報道挺身隊」、「仁術挺身隊」内鮮一体挺身隊」などの存在について考察した最初期の論文である。ただしまだ、「挺身隊」と「女子勤労挺身隊」の言葉の意味の違いについては考察されていない。

有益な知識がいくつか見られるので、必要な部分を抜き出してみよう。

(なお翻訳をしてくださったのはY.C.さんである.。こころから感謝申し上げる



日帝末期朝鮮人女子勤労挺身隊に関する実態研究』(p2~p3)の翻訳
 
(略)
 朝鮮では日帝期に軍慰安婦という用語はほとんど使われず、日帝末期に挺身隊という用語が新聞に登場した。挺身隊とは「ある目的のために自ら身を挺する部隊」[4]という意味で、日本でも組織され、主に男性を対象に組織されたが、男女を包括することもあった女子のみを対象にする場合には女子挺身隊と明記した。挺身隊には勤労挺身隊だけでなく国語普及挺身隊、報道挺身隊、仁術挺身隊等があり、各界から広範に組織された[5]。対象と動員期間が女子勤労挺身隊と類似のものとして内鮮一体挺身隊がある。これは、1940年秋、総督府と商工省が相談して19413月から施行したもので、小学校6年を卒業した青少年約600人を選び、朝鮮に支店または支所を有する内地(日本)の工場または事業所に送って3年または2年間技術を学ばせた上で再び朝鮮の支店や支所で勤務[6]させる制度である。

(略)


脚注)

[4] イ・ヒスン(編)(1981)『国語大辞典』(ソウル:民衆書林)p3253

[5] 現在、記録上、挺身隊という名目で組織が始まったのは194011月、咸鏡南道の咸興で農村挺身隊という名で、各郡から60100名ずつ選んで12月から23ヶ月間、国策工事に動員することにしたこと(『毎日新報』19401113日)が最初だが、その前にもあったかどうかはさらに確認が必要だ。その後に組織される様々な挺身隊は国民総力連盟、総督府京城府、京畿道、協和会等、官または御用団体が主体となって愛国班の男女、国民学校の教員、農業学校の卒業班等を対象にして短いもので2週間、長くは23年の期間で組織された。このような挺身隊の結成式が主に新聞に報道された。
 学生を対象にしたものは19413月の学徒挺身隊だ。19431月、報国挺身隊が組織されたとされるが、その子細な内容は分からない。(チョン・ジェチョル(1985)『日帝の対韓国植民地教育政策史』(ソウル:イルジ社)p415)。
 女性を対象とした挺身隊としては、女子勤労挺身隊の他に、1944117日龍山警察署で管内の料理営業関係の雇女(満16歳以上)150人で皇国女性の本分を体得し有事の際に炊事で、救護で奉公に挺身する目的で結成された特別女子青年挺身隊がある(『毎日新報』1944118日)。また、194412月に西区大新町の各愛国班から1名を選抜して編成し、有事の際に救護活動をするよう組織された女子救護挺身隊がある(『毎日新報』19441218日)。



[6] 『毎日新報』1941218日。