慰安婦を渡航させるためにお国がしていたズルっこいやり方
日本から中国にわたる際には、1937までは旅券を必要としなかった。しかし日中戦争がはじまると警察が発行する身分証明書かもしくは外務省の旅券を必要とするようになった。
それが、1937年8月の話である。
それから、ゴールド・ラッシュさながらの人の移動が起こる。
軍に何かを納品する業者や日本軍が占領した地方の米英人経営の鉱山などを乗っ取る利にさとい商社の人間、移民に右翼ずれややくざもん、旅行者、水商売の女たち、戦争のどさくさにまぎれて一攫千金を狙う様々な分野の商売人が多かった。なんせ天下無敵の皇軍が領土を分捕ったのだ。行けば美味しい目にありつけるかも知れない。わずか3年足らずの間に60万人弱の民間人が中国に渡った。
この閣議決定の方針によれば 「特に支那渡航を要するもの」 と 「定住、または現地勤務の為」 の渡航に関しては、これを認めることになっていた。当然、慰安婦(特殊婦女)はこのどちらでもあり得ない。ゆえに渡航は禁止されるはずだったのだが、そこは”蛇の道は蛇”というわけで、慰安婦をぜひにも必要とする軍のために抜け道が用意された。
1940年の終わりころに作成された『「渡支邦人暫定処理の件」打ち合わせ事項』という文書には、「特殊婦女」は「定住のために」という事で処理せよという書き込みがある。(下赤線)
つまり、一応禁止はしているが、慰安婦だけは「定住のため」という名目でOKすりゃいいじゃないかというのだ。
融通が利かないので有名な日本のお役所だが、こういう事にかけては融通が利いたらしい。まあ、軍に逆らえない世の中だから、お役所も”蛇の抜け道”を造った訳だが。
(赤線は当ブログによる)
