河野談話を守る会のブログ2

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慰安婦否定論の源流(2)憲友会による慰安婦証言攻撃「憲友会とは何か?」


          憲友会とは何か?
        1、靖国神社奉賛する戦友会
 東京都千代田区靖国神社の内苑深くに『憲兵之碑』がある*(1)。
十数年前までは毎年8月9日の「憲兵記念日(旧軍による)」には、靖国神社内で開かれる憲友会全国総会に出席する役員たちが並んで参詣していたという。総会には設立以来の付き合いである陸上自衛隊警務課や昭和44年に発足した全国警親会連合会の役員も出席していたと警親会会長(当時)入江啓二氏は書いている*(2)。
 
憲友会とここで呼んでいるのは、各地方並びに出征地仲間で造られた各憲友会とその憲友会を束ねる全国憲友会連合会の総称である。

憲友会と靖国神社との関係は古く、戦前憲兵は神社内に常駐して社内警護に当たっていた。東京大空襲の際には神殿の千木に火が回ったのを憲兵が消し止めたという逸話もある。こうした特殊なつながりがあったため、多くの戦友会が申し込んだ中で、憲友会だけが碑の設立を許されている。当初憲友会側は『慰霊碑』として建設を計画していたようだが、靖国の性質からか*(3)、靖国神社側が『憲兵の碑』とし、1969年に除幕式が行われた*(4)。こうした経由が示すように憲友会は靖国神社と最もつながりの深い戦友会であり、靖国の奉賛団体として、連合会会則にも、「英霊の顕彰」や「愛国心の高揚」などが謳われている。そしてもっとも力点がおかれているのが、憲兵の名誉の回復であり、『憲友会四十年のあゆみ』の推薦文で全国憲友会連合会副会長の森定尚氏は「憲兵に係わる誤った認識、故意の歪曲、英霊の冒涜等・・・歪曲された憲兵観を正して英霊を奉慰顕彰すること」が憲友会の活動だと述べている。ゆえにその編纂した憲兵史には憲兵による犯罪史が欠落している*(5)という欠点を持っている。憲兵の活動をことさら美化する傾向にあり、BC級裁判によって裁かれた事については、不当な裁判であるという主張が多い。全憲連会長亀井隆義が書いた『憲友』80号(平成9年春号)の論稿では、「国の指導者の命令に従って行動した下級者をBC級戦犯にしたことは不当な処分」であり「見直すべきだ」、としている。こうした主張は部分的に合理性を持っているが、憲友会として個々の事例の本当の犯人である命令者を追及してはいない。それどころか1982年に東京憲友会が刊行した『殉国憲兵の遺書』のトップには憲兵政治を行った東條英機*(6)の遺言を掲載している。この事から考えても、元々誰の命令であったかなど、追及する気もなかったようだ。

近代国家における憲兵の役割は「軍隊内部、及び軍隊と外部社会との直接の接触面に対する警察権力」というところだが、日本の憲兵制度は近代市民法の法理とは異なり、天皇絶対主義国家の統治手段として組織され、国内の民主主義傾向を抑圧してきた*(7)。平凡社大百科事典(5)が「内外における増大した軍の影響力と威力を背景に権限行使の法的規制を持たない憲兵制度が造られて行った」と書いたように、その権限は広汎であり強大であった。これが監視と恫喝の時代をもたらしたと 纐纈厚氏は書いている*(8)。また戦前の体験談には横暴な憲兵が一般臣民を殴った様子も描かれている*(9)。





*(2) 『憲友』60号、p17

*(3) 靖国の性質=靖国神社 職員有志らは「靖国神社は追悼施設ではない」「戦没者の冥福を祈る場所ではない」「靖国神社は、戦没者を神様として崇め、すがるための場所である」と主張している。http://sky.geocities.jp/yasukunishokuin/01.htm

*(4) 『憲友会四十年のあゆみ』p36

*(5) http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/65091642.html

*(6) 『殉国憲兵の遺書』p29~p31東條英機の遺言 
遺言の内容は「国際的犯罪としては無罪」、「ただ力の前に屈した」、と自己の国際的罪責を否定、また「第3次世界大戦は避けることができない」「(戦場は)極東だ」と呪いのような文章に重点を置いている。
*(7)
●『15年戦争極秘資料集4』(p5)、岡部牧夫「満州事変における憲兵隊の行動に関する資料」

●元憲兵大谷敬二郎の『昭和憲兵史』(みすず書房)では「東條独裁に奉仕する不幸な事態」(p3)とし、p450~p473に詳しく書いている。p459では「東条およびに憲兵を含めての東条系の悪あがきはまことにすざましいもので、それは、恐怖政治の名も決して誇張ではなかった」としている。しかしp473では「文化人に弾圧をもってのぞんだといわれることは言い過ぎ」で「ただ、反戦、反軍と認められる言論に対しては出たとこ勝負で警告を発し、時には司法事件として検挙したことは事実である。いうまでもなくそれは憲兵本来の任務に発するもので、何も東条を擁護するともりはなかった。」と合理的でない庇い方をしている。
しかし「反戦、反軍と認められる言論」を恣意的に判断し、警告・検挙することが「憲兵本来の任務に発する」としたら、憲兵は、最初から戦争を抑止する言論の自由の敵であったと言うしかないだろう。またここで「警告」と書いてあるものはそれを受ける個人及び団体にとってはあからさまな「恫喝」にすぎないだろう。大谷氏の著作には憲兵による尋問と拷問の内実などの記述がまったく無く不満が残る内容である。

*(8)  
●纐纈厚 『憲兵政治: 監視と恫喝の時代』

●「学生たちは憲兵特高警察に「反戦的で女々しい」として摘発されるのを警戒して、密かにこの歌で友人たちの出征を送ったという。」(『歌われたのは軍歌ではなく心の歌』p55)

●「「遠い米国が日本にまで来た。これは負け戦だ」と母。女学生の姉は「しいっ憲兵にでも聞かれたら大変なことになる」と咎めました。(『戦争体験 朝日新聞への手紙』p72)

●前掲『昭和憲兵史』
「・・・軍に不利、有害な言動には、反軍反戦言動として、厳しく視察取締をしたことは事実であろう。」(p108)
「それはまさに政党を政治から締め出すものであった」(p242)
「この憲兵が軍の勢威をはるための一つの道具建てであることを知ったのである。」(p252)

*(9)
1978年 栗栖弘臣統幕議長(第10代) が「いざ戦闘となれば自衛隊は独断する」「徴兵制は有効だ」等の発言をしたので、当時の金丸信防衛庁長官は、栗栖議長を直ちに解任した。後に金丸氏は、「私の原点は出征する私を両親の目の前で殴った憲兵の横暴である。シビリアン・コントロールがいかに大事かということは、習わずとも身にしみている」と語った(坂本龍彦『風成の人』岩波書店168頁)(『週刊ポスト』1978年7月20日/8月4日合併号)


     

           2、歴史修正主義へと収斂する憲友会

全憲連副会長の赤澤友次郎氏は、 『憲友会四十年のあゆみ』(1995.5)の中で自国の歴史に誇りを持たないこと」「東京裁判史観により仕組まれている」として不満を述べて、憲友会の名誉回復活動が近年勃興した歴史修正主義へと吸収されている様子を示している。

憲兵の名誉回復はそのままイコール「日本の戦争犯罪」「日本の戦争責任」の否定に向かうことになる。なぜならもし、大東亜戦争が「日本が正しい戦い」であるなら、その中で真面目に反戦・反軍言論を弾圧・迫害した憲兵たちの行動*(11)も概ね正当化されうるからである。逆に「日本が正しくない戦争(侵略戦争)」であるなら、その先兵として、反戦・反軍言論に対して嫌がらせ、拷問、殺戮などを日本国内及びに占領地の地元住民に容赦なく行った憲兵がたとえ「それが命令だった」と言い訳しても通らないであろう。ゆえに高い比率で戦争犯罪人としてBC級軍事裁判で断罪された憲兵の名誉回復を唱える憲友会にとってあれは「聖戦」でなければならない。靖国は、祀られた元皇軍軍人・軍属がどのような死に方をしてもそれは不問とし、「英霊」として一律に顕彰するという性格を持つ神社である。だから靖国は自己の行為を正当化したい元軍人には都合がよい存在なのだ。そしてそれはキリスト教とちょうど逆である。キリスト教は、罪に向き合うことを推奨してきたが、靖国は罪に向き合わないための装置なのである。




(『憲友会四十年のあゆみ』 p13) 赤線は当会による


1990年、ソ連を中心とした共産主義陣営が崩壊したころ、日本では新たにバージョンアップした歴史修正主義が生まれた。「GHQによる洗脳がなされた」「東京裁判史観が植え付けられた」(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム WGIPとする意見が江藤淳氏や高橋史朗氏らによって唱えられ、それまでの論争で決着がついたはずの南京大虐殺論争が再びぶりかえす事になる。赤澤副会長の意見はまさに遺族会及び日本会議周辺に広く拡散しているこのWGIP論説に憲友会幹部も同調していたことを示しているのである。

そして、歴史修正主義者にとっては、慰安婦問題も「GHQによる東京裁判史観の洗脳を受けた反日左翼による反日活動である」という事になる。憲友会の唱える「慰安婦問題否定論」もまたその延長線上にある。

 さて、本論文は憲友会による慰安婦問題否定論に焦点を当てたものである。しかし、その前に憲友会という一般には知られていない組織について言及しておく必要があったのでこれを書いている。
憲友会が発行していた季刊誌『憲友』の特徴の一つは「憲兵による拷問」がまったく語られていない事である。これは、大谷氏の『昭和憲兵史』にも共通している*(11)。水野靖夫が、「白い手の女は、八路軍の手先の疑いありとして、憲兵の手にわたされ、拷問のあげくに虐待されることが多かった。」と書き*(12)、軍医 麻生徹男が「嫌でも聞こえる訊問の大声、悲鳴、水攻め。死者を甦らせよ、もう一事聞きたい事ありと私に命じる憲兵殿の語気、それは今でも悪夢である。」と書き残している*(13)そのすざまじい拷問は、元憲兵たちによっても記録されている*(14)。しかし『憲友』にはその手の事はまったく書かれていない。

戦友会という組織は全体としてそういう面を持っているが、都合の悪い歴史は書かないという性質を持っているのである。そのため『憲友』に掲載される慰安婦論もまた憲兵と国家の正当化のための歪曲に満ちてしまう。そしてここで形成された慰安婦問題否定論はやがて秦郁彦を通して右派全体へと波及することになる。


*(11)
前掲『昭和憲兵史』は、都合の悪い事は言葉を変えて書いている。例えば「敗戦直後、日本政府は戦争犯罪の証拠となるような資料を焼却した」と書くべきところを「終戦の混乱は、第一線における貴重な資料をほとんど灰にしてしまっている」とまるで自然現象のように書いている。これは主体的行為を誤魔化すための「事実の歪曲」と言えるだろう。大谷氏は20年3月に東部憲兵隊司令官についており、命令があった事を知らないわけがないのである。
また「取締」とは書いても、その「取締」の中でしばしば行われた拷問については書いていない。こうした婉曲表現による事実の歪曲は、著者が元憲兵や元兵士の社会に生きている場合には当然考えておかねばならない事柄である。人間関係の上で書いては都合が悪いことがあるからだ。
大本教キリスト教に対する弾圧。とりわけ賀川豊彦への圧迫も東京憲兵隊本部の仕業だったはずだが、これも書かれていない。

*(12)
水野靖夫 『日本軍戦った日本兵』 1974
憲兵志願兵
青島
1939
 
「青島の慰安所はれっきとした日本海軍直営の店だったのである。」
 
若い女性をとらえると、日本の兵隊たちはまず両手を開かせて、手の平を調べた。農民や労働者の手であれば、その場でおもちゃにしたり、県城につれていって慰安婦や金持ちの妾や小間使いにうりとばした。白い手の女は、八路軍の手先の疑いありとして、憲兵の手にわたされ、拷問のあげくに虐待されることが多かった。」

 
 
*(13)
麻生徹男 『上海から上海へ 戦線女人考 花柳病の積極的予防法』

武昌憲兵
 昭和16年3月中旬、私は武漢の地を去る事となった。写真中真ん中の建物は、武昌憲兵隊、その後ろ小道を隔て私の勤務の場所、兵站病院レントゲン室があった。嫌でも聞こえる訊問の大声、悲鳴、水攻め。死者を甦らせよ、もう一事聞きたい事ありと私に命じる憲兵殿の語気、それは今でも悪夢である。この建物にはYMの三角マークと武昌基督教青年会と書いてある。

*(14)