「天皇を神」にしたい人たちの歴史教科書問題(1)
右翼の高校歴史教科書作成に使われた神社本庁の予算
(『神社新報』60-6.3)
(クリックして拡大) (この冒頭の言葉は長文なので、不要な部分はできるだけカットしている)
注意しなければならないのは、神社本庁の活動として「高校教科書の準備も着々とすすめており」と述べていることである。「他の団体の活動に協力して」ではないのである。(黒神総長は他の団体の活動協力については別に言及している)
神社界と元号法制化運動
『新編日本史』・・・・・この教科書がなぜ「極右教科書」と批判されたのかについて、ここで整理するつもりでこれを書いている。しかし、途中で様々な「ついでの小枝」を拾っていくつもりである。
この『新編日本史』を造ったのは、[日本を守る国民会議]という団体である。この団体は[日本会議]の前身組織の一つであり、事務局長は椛島勇三だが、事務総長には歴代 明治神宮権宮司が就任していた。そして初代事務総長となったのが、副島広之明治神宮権宮司である。
さて、その明治神宮を含む神社界が占領の後期からはじめたのが、元号法制化運動であった。早くも、1950年2月には神社新報と神道青年全国協議会(神青協)が、元号存続キャンペーンをはじめている。神青協は3月、元号廃止反対の署名と陳情書を衆参文部委員に提出した。そして当時創刊されたばかりの『神社新報』は、その後「元号法制化」を紙面で主張しつづける。これが右翼たちを巻き込んでいくのである。「日本を守る国民会議」の前にその前身組織である「元号法制化実現国民会議」の石田和外について述べておこう。
石田和外最高裁長官
神社界の元号法制化運動に各界の右翼人が参加し、造られたのが「元号法制化実現国民会議」という組織である。議長は元最高裁長官の石田和外。石田は戦前、財界人が拷問され、「検察ファッショ」の批判も湧きおこった[帝人事件]を主任の陪席判事として裁いたことで有名である。剣道の達人であり、自信家で後年自分の業績に100点満点をつけている。ちょっとだけ恥ずかしい人かも知れないが硬骨漢でいたずら好き、語るべきエピソードも多くある人物である。しかし、この石田もまた多くの国民同様に、あの戦争に対して真の反省を欠いており、共産主義の問題には気づいていたが、自分が後にのめり込んでいく国粋主義の問題には気づかなかったようだ。いや、子供のころに受けた国家主義教育を疑わなかっただけなのだろう。だが、そこが問題なのだが。石田和外以来最高裁は右傾化(+国家主義化)を続け、今日では国に不利な判決を出さないのが暗黙のルールである。
この石田を最高裁長官にすべく動いたのが、破防法を自ら提案し造った木村篤太郎だhttp://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/95-56/torii.htm。1968年の話である。翌年の1月から1973年まで、4年間石田は最高裁長官として君臨することになる。木村篤太郎は吉田茂の最高ブレーンの一人だったが、「日本の国難」を救うために石田を最高裁長官へと佐藤栄作に推挙した。木村と石田の接点は法曹界だが、剣道もお互いを知る媒介であった。なぜか今年2017年、木村篤太郎杯の名前を冠した剣道大会が行われている。https://mainichi.jp/articles/20170214/ddl/k29/050/622000c 日本剣道連盟の初代会長であった木村は、「剣道会の法王」とも呼ばれていた。毎日新聞1974年3月16日の朝刊によると木村が日本剣道連盟会長の座を譲ったのが最高裁を引退した石田であった。
予定外な方向に筆が伸びている。実は3,4行で石田について紹介して次の話に行こうと思ったのだが、書き始めてみるとそれでは終わらないことに気づいた。後に石田が靖国神社の国家護持を唱える[英霊にこたえる会][元号法制化実現国民会議]の会長・議長を務めた重要人物であるというだけではなく、石田の長官時代に、家永教科書裁判がなされたからである。家永三郎は、1953年から歴史教科書『新日本史』の執筆を行っていた。しかし、やがて文部省は戦前回帰を志向しはじめ主任教科書調査官には平泉 澄の弟子である村尾次郎が就いた。家永の執筆した教科書は1963年はじめて不合格処分にされ、翌年には323か所の修正。1966年にはまた不合格にされてしまう。そこで家永は裁判に訴えるのである。
この時裁判で問題になった文部省不合格理由部分は6か所あった。その記述の一つがこれである。
この家永三郎の『新日本史』と、この記事の冒頭に挙げた神社本庁が予算を割いた『新編日本史』は、名は似ているのにまったく対照的なのだ。『新日本史』は神権天皇制を否定したがゆえに検定不合格とされたが、『新編日本史』は天皇を神としたい事が検定不合格の理由とされたからである。そこには二つの手法があり、二つの心がある。前者は近代の科学的精神が生んだ歴史学手法を使用し、後者は、黛敏郎流に言えば「心の真実」を記したのであり歴史修正主義手法を使っている。前者は天皇を神として崇拝することを拒んでいるが、後者は天皇を神としたいのである。一方で文部省の検定が検定官の信奉する思想によって左右されてしまうことが、ここで明らかになるのである。そして文部省がアナグロに冒されやすい官庁であることも知られるようになった。おそらく右翼政治家たちの働きかけがあったのだろうが家永の時代、文部省の教科書行政が「皇国史観の復活」を画策し、1956年には文部省主任教科書調査官として平泉 澄の弟子であり皇国史観の信奉者である村尾次郎らを招聘したのだ。http://fis.meijigakuin.ac.jp/ks-j/student_life/article/2015nakamura
そして「教育」分野への参入
第一次家永裁判--つまり60年代の裁判の経過を詳しく書きたいところだが、それは話がずれすぎるので別の機会にしたい。ここでは、「天皇を神としたい」人たちと「天皇を神としない」人たちの闘争が、教科書問題、その裁判を通してなされて来たのだということが理解できれば十分である。
1979年5月元号法制化が衆議院を通過し、参議院で審議されているさなかに石田和外は死去する。「元号法制化」は、1979年6月5日、参議院を通過し実現する。[元号法制化実現国民会議]は、ここで用を失うはずだったが、前出の副島広之明治神宮権宮司が「解散してしまうのはまことに惜しい」と述べ、[日本を守る国民会議]の結成がなされる(『神社新報』1997-5-26、6面 座談会)。その結成に寄せた篠田康雄神社本庁総長は、「憲法、防衛、教育。これが国家の基本の三本柱だ」とその運動方針を述べている(同上)。そして[日本を守る国民会議]が教育の分野で行ったのが、ここでテーマとなっている右翼教科書『新編日本史』の作成なのである。神社本庁が予算を出した理由がよく理解できる。
(つづく)