櫻井よしこ様の頭の中
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「血の中から疑問を感じた」というのだ。
これが、櫻井の歴史改竄主義の原点なのだろう。そしておそらく他のウヨクな方々も同様であろう。血が否定したいのである。
最初から「血の中から疑問を感じた」という事は、【最初から「慰安婦」問題に否定的な先入感情があった】という事だ。その後の全てはその先入感情に基づいた結論を正当化するだけだったのではなかろうか?
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例えば慰安婦問題の研究者であるというなら、今日まで発見された約800件の公文。私が知るだけでも1000件を超える元皇軍将兵の証言・著作物。日本で入手できる50人を超える元慰安婦の証言。こうした一次情報をまず知るところから始めなければならない。慰安婦制度の性質を知るために研究しなければならない事は山ほどある。そうして初めて慰安婦問題についてある程度まとまった意見を形成できるのである。しかし彼女はそんな努力をしてしない。やっている事と言えば、たいていの場合同じ指向性を持つ秦郁彦や西岡力の主張をつまみ食いしているだけである。
では本業であるはずのジャーナリストとしてはどうだろうか?
これはなかなか驚きである。自分で取材することには価値を見出していないらしい。
はたして、真実を追求する気の無いジャーナリストというものに存在理由があるのだろうか?
例えば報道関係者が記事にする場合、記者は自分の才量で要約したりしてしまう。そのいい例が金学順さんの証言であり、本人は私が知る限り常に「養女に出された」と言われているのだが、それを聞いた人が「売られた」と書いてしまうことがある。するとさらにそれを読んだ人は「親が売った」なんて理解してしまうのである。
これはなかなか怖い事だ。
だから、証言を読む場合には、できるだけ一言一句ありのままを記録したものを読まなければならない。誰かが要約したものにはガセがあるかもしれないからだ。特に秦郁彦のようなデマ屋を通して、理解しようとするのは致命傷になりかねない。
さらに右派のように全てを伝言ゲームをしてしまうと元の話が分からなくなり、どんどん妄想的な話になってしまう事になる。
こうして一体何が出典?という話が右派論壇にもネトウヨブログにも蔓延してしまうのである。
それをジャーナリストがやるというのはどういう事か?
今係争中の植村隆攻撃にしても、櫻井が自分でソースを確認しながらやっていたものとは到底思えない。誰かが書いたという理由で自分も右ならえしただけではないのか。
1997年、櫻井は評論家の金両基と歴史問題をテーマに対談して、金両基に「それ(*吉田清治否定)以上、議論を展開するのであれば櫻井さんご自身が調査したものに基づいて触れて欲しかった」と忠告されているのだが、まったく耳を貸さなかったようだ(『日韓歴史論争 海峡は越えられるか』p26)。
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『週刊金曜日』の最新号(2017-12/15)はなかなか面白い。
例えば、黒澤いつきのこの記事だ。

もう改憲できれば、どんな屁理屈でもいいらしい。
櫻井よしこのデタラメさに辟易とした憲法学者の小林節は「言論人の仮面をかぶった嘘つき」「私の経験から言うと、櫻井さんは覚悟したように嘘を発信する人」と手厳しい。http://news.livedoor.com/article/detail/11480440/
だが、おそらく嘘を指摘されても、何の動揺もないのだろう。
朝日新聞なんかより、はるかに悪質な嘘を量産している右派だが、彼らは平気である。
(全敬称略)