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【TVや講演で披露している秦郁彦の捏造小話】 話を盛り付ける歴史家!




捏造=実際になかったことを事実のように仕立て 上げること。でっち上げ。




2012年04月19日の話なのだが、民主党慰安婦問題に関する勉強会が開かれた。
この時講師をしているのが秦郁彦センセイである。民主党のこの勉強会は2014年になってもやはり秦郁彦を招いて行っている。)


民主党オープン・フォーラム(近現代史研究会)が19日の夕、国会内で開かれ、歴史学者秦郁彦氏を講師に迎え、「近現代史に学ぶこと――アジアとの関わりにおいて」をテーマに2回目の研究会があり、慰安婦問題についての氏の研究結果の紹介を受けて意見交換した。
 司会進行は総括副幹事長の松井孝治参院議員が務め、同研究会座長の藤井裕久最高顧問をはじめ衆参国会議員、党関係者、一般参加者など約50人が参加した。
 講演内容詳細は下記参照。


http://www.dpj.or.jp/global/images/common/pdficon_large.gif2012年4月19日近現代史研究会秦郁彦氏「近現代史に学ぶこと(2)慰安婦問題」配布資料
http://www.dpj.or.jp/global/images/common/pdficon_large.gif2012年4月19日近現代史研究会秦郁彦氏「近現代史に学ぶこと(2)慰安婦問題」講演速記録
民主党広報委員会


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この会合で秦センセイは明らかな作り話を披露している。


 慰安婦の話ではないものを「慰安婦の話」として紹介する秦郁彦の捏造小話】

●私は元慰安婦だった人に会ったことがあります。80 歳ぐらいになっていたそのおばあさん、あっけらかんとしていました。中国大陸で稼いで、それをみんな戦争中に日本へ持って帰り、戦後も大して困らないで暮らしております。割に大きな家に1人で住んでいましたよ。「今 200万円とか 400 万円をアジア女性基金が出すということですが、いまだに日本女性が名乗り出ない。どうなんでしょうね」と聞いたら、「200 万円ではちょっと……。誰も出ないでしょうね。これが 2,000 万円と言えば出てくる女性もいるかもしれません。」という話でした。

 

慰安婦の方に話を聞くと、「中国大陸で稼いで、それをみんな戦争中に日本へ持って帰り、戦後も大して困らない」という話である。

つまり元慰安婦だが、幸福に暮らしている実例としてこの話を述べているのだ。

えっ誰だろう?と一瞬思ったがすぐに合点がいく。続けてこう述べているからだ。


「今 200万円とか 400 万円をアジア女性基金が出すということですが、いまだに日本女性が名乗り出ない。どうなんでしょうね」と聞いたら、「200 万円ではちょっと…。誰も出ないでしょうね。これが 2,000 万円と言えば出てくる女性もいるかもしれません。」という話でした。
 

おお、なるほど・・・

この話は慰安婦と戦場の性」のp226~p228に書かれている。

しかし「200 万円ではちょっと……。誰も出ないでしょうね。これが 2,000 万円と言えば出てくる女性もいるかもしれません。」と述べているのは「元慰安婦だった人」ではなく、慰安婦ではないが居をしていた柴岡トシオさん」(P226)である。



転載しよう。これは慰安婦と戦場の性」のp226~p228に、秦センセイが自分で書いている内容だ。


慰安婦ではないが、仲居として周辺事情を見聞きした柴岡トシオさん(1916年生まれ)の身の上話を聞く機会があったので、最後にその要旨を付け加えておこう(*注)。
農家に九人兄妹の長女として生れたが、小学校は三年まで行ったか行かずで、八歳のときから子守ついで女中奉公を経て十八歳で大阪の紡績女工となった。日給一円二〇銭稼ぎ、全額を親へ送金した。故郷へ戻り一年足らず月給十円で小料理屋で働らいているところへ、下村某という女街から窪川出身の夫婦が徐州で開いた料理屋へ前借六〇〇円、年季三年で酌婦に行かないか、とすすめられた。私は父親に言うと前借金をとって女遊びに使ってしまうとわかっていたので、 ハンコを盗んで同意書を警察に届け、家出同然の前借なし、渡航旅費も自弁する条件で徐州へ向った。
志願した十八歳の若い女性と同道して宿毛港から別府へ渡ったが、警察のコネを使っても、彼女には渡航許可が出ず、経営者の女将、 一旗組の印刷屋と二人で徐州についたのは一九二九年夏だった。
「松竹」というその料理屋は日本人十二人、朝鮮人人の酌婦がいて、見習を半年やったあと私は仲居になった。客の割り振りや領事館警察との交渉が仕事で、体を売らぬので収入はチップだけだが、1日10円ぐらいになり、南京や上海にも見物旅行したし、故郷にもたびたび送金し、生活は豊かだった。
その間に出入りしていた軍通訳と結婚(入籍ぜず)したが、長くつづかず別れた。日本人酌婦のなかで、客のえり好みするのが2人いて、折合いが悪くなり、朝鮮人主体の「慰安所」へ転売されてしまった。  
朝鮮人酌婦の一人(カオル)は阿片中毒で入院しても治らず、そのうち子供を産んだのを私が世話したが、のちに子連れで朝鮮へ帰った。
お客の軍人から戦況を聞き、帰国を決意して列車で朝鮮を経由、四五年春桜の咲く頃に四国へたどりついた。ワイロを使って五〇キロの荷物五個をチッキにしたが、無事に故郷まで持ち帰れたのは運が良かったと思う。
戦後のインフレ期も、持ち帰った着物などを処分して食うには困らなかったが、経営者夫婦は終戦の翌年、リュック一つで引き揚げてきた。
私はその後結婚したこともあるが、別れて大阪の土建会社で二十年働らき、今は故郷の家で年金の一人暮しだが、悪くない人生だったと思っている。


(*注)(4)一九九八年五月八日、九日の柴岡トシオヘのインタビュー、西本謙二憲兵准尉(一九三九―四四年に徐州憲兵隊勤務)、多田豊憲兵軍曹(一九二八―四三年、同)の証言





そして3ページにわたってその証言が掲載された後にこう書いている。


「テレビもよく見ているというので、なぜ日本人慰安婦は名乗り出ないのでしょうね」と聞いてみたら、「200 万円ではだめでしょう……。2,000 万円と言えば出てくる女性もいるかもしれません。」と彼女は笑いにまぎらせた。



つまり、民主党の会合では、居をしていた人の話を脚色して慰安婦として紹介し、割に大きな家に住んで、戦後も大して困らないで暮らしている・・・・という話を作りあげているのである。

すでに秦郁彦センセイについては、資料のズサンな扱いや悪質な改ざんを指摘している。http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/folder/1540734.html

大学は辞たようだが、この人本当に歴史家なのだろうか?
慰安婦」に関して秦センセイの述べる話は、まるで講釈師の述べる歴史物語である。

江戸時代、日本には講釈師という人々がいて、歴史をあること、無いこと面白おかしく語っていたので、現代まで「講釈師、見てきたような嘘をつき という言葉が残っている。



        吉見氏と会って話したという話



吉見さんは前から私の知っている研究者だったのですが、防衛庁に戦史部という部署があり、旧軍の資料が保管されています。1991 年 12 月のことですがたまたま行ったときに久しぶりに彼とばったり会ったので、「何を調べているのか」と聞きますと、「ここの資料から、日本軍が慰安婦と関与していた証拠を見つけた」と言うんです。聞いてみるとそれは私も読んだことのある文書で、それが役に立つのかなぁと思ったら、「近々朝日新聞に大きく出る予定だから、見ていてください」とのこと。・・・」
(これを吉見氏は否定している。林博史秦郁彦慰安婦と戦場の性」批判週刊金曜日290号http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper44.htm
 
これまでいくつかの事例で秦センセイの作り話は発覚している。

この話もおそらくは秦センセイのつくり話なのであろう。
歴史家として、朝日新聞から産経新聞まで、幅広く登場している秦センセイである。なるほど、興味深い話もあるのだが、時折話を盛り付けるクセがあるようだ。まったく信用していないのは私だけではないだろう。

先日、TV番組で「挺対協が殴る、蹴るした・・」とか述べていたが、この件に関しても近いうちに糾弾しておこう。