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永田町言語における謝罪の言葉の弊害

    「善処します」とか「検討します」とか「遺憾である」とか「深く反省する」・・・とかいう永田町言語
 
我が国日本では、政治家たちがしばしば「善処します」とか「検討します」とか言う。
普通に我々が捉える言葉の意味は「善処するんだな」「検討してくれるんだな」という前向きな意味になるが、政治家や官僚が使う「善処します」「検討します」は前向きな意味ではない。彼らはしばしばこれを可能性がないときに使う。可能性はないが、もう言及して欲しくない時にこういう言い廻しをするのである。
それはつまり「その事については「善処する」と言ってますから、もう追及しないでください」という意味なのだ。
 
それでさらに追求したりすると「もう「善処する」と言ってるのに、なんで追求するんだ」と逆に責める。
「なぜ、そんなにしつこいんだ。」と責める材料となったりもする。
 
この構造は、慰安婦問題をはじめとする歴史観の問題全般に存在している。閣僚達は、自分の本意はともかく、閣僚になると謝罪したりする。その謝罪には大抵主語がない。「誰がどんな悪事をして」「誰が謝罪しているのか?」よく分からない構造になっている。日本語は主語をあいまいにできる言語だからだ。
 
それから、謝罪自体があいまいで、具体的な事を言わずどちらともとれるような言葉にしてしまう。「不幸な期間」とかいうのだが、その「”不幸な期間”とかいうのは何か?」と本人に聞いてみても、おそらく具体的な不幸の内容は何も出て来ないだろう。本音ではそんな事を考えてはいないからだ。ただ口先だけの謝罪の言葉を口にし、責任の追及から逃れたいのである。
 
具体的な事を言うとその言葉の責任を問われてしまう。しかし抽象的な言葉にしておけば、それはどうとでも言い逃れ可能である。だから、あいまいな表現を好むのである。
だから、権力がからむ国会などの場ではあいまいな答弁に終始するのが日本である。
 
いやそれは政治権力の場だけではないだろう。
たとえば、ある会社ではクレームをつけてくるクライアントに「まず、”すいません”と謝罪しろ」と指示している。
普通の感覚では、何がどう問題なのか?まず聞き、次に内容を検討して自社に落ち度があれば、謝罪ということになる。ところが、まず謝罪するという結論が設定されている。
欧米や韓国などでは到底は考えられない風習が日本にはあるのだ。
 
これはどういう事かと言うと「すいません」というセリフで「もう謝りますから、怒らないで大人しくしてください」というメッセージを送っているのである。
それで世の中には「すいません」を口癖としている人がたくさんいるわけだ。だから、「すいません」という言葉は、日本ではものごとを丸く収めようとする時に使うのである。
人間関係の潤滑油という事もできるが、言い逃れのための言葉とも言える。
 
 
これは上の謝罪ともとれるような「善処する」「検討します」「遺憾である」「深く反省する」と同じ使い方なのだという事が分かるだろう。だからこれは日本人の精神構造に根付いているのだとも言える。「善処します」「検討します」「遺憾である」「深く反省する」はそれを少し高尚にしただけの言語なのである。
 
この手の謝罪ともとれるようなよく分からない言葉が永田町界隈には、日用言語として存在している。
 
 
 
   2、安倍総理の使う謝罪のような言語
 
先日、安部総理の2007年アメリカでのブッシュ会談の後の「謝罪の様子」を動画で紹介した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
安倍総理慰安婦の問題について昨日、議会においてもお話をした。自分は、辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、人間として、また総理として心から同情するとともに、そうした極めて苦しい状況におかれたことについて申し訳ない想いでございます。
 
これはどう見ても我々には謝罪に見える。そしてこの後で演説したブッシュ大統領も「謝罪した」と受け止めている。欧米韓各紙も「謝罪した」と書き連ねている。
ところが、安部総理自体は、謝罪として言ったのではなく、いつものように永田町言語を使ってあいまいに謝罪ともとれるような表現をしただけかも知れないのだ。相手が日本人なら言外の言語を受け取ったかも知れない。しかし欧米や韓国語にはそのようなニュアンスは存在しない。謝ったような言葉を使いながらはぐらかすなんて芸当は、英語でも韓国語でも難しい。だから欧米各新聞社は直訳するし直訳すれば「謝罪」になるだろう。
 
これは言うならば精神構造の違いから生まれた文化ギャップだと言えるが、問題はここに見える安部総理の邪な本音を隠しながら口先だけで謝罪ともとれるような言い回しである。昔日韓基本条約のときに椎名悦三郎が「不幸な期間は遺憾であり、深く反省する」と述べた後、帰国すると影で「栄光の日本軍」とか言って大ヒンシュクを買ったが、この安部氏の「申し訳ないという気持ち」 も口先だけのものであることはいうまでもないだろう。
 
何をどう反省”し、”何がどのように申し訳ない気持ち”なのか?そしてこれからどうするのか?を盛り込まない謝罪ともとれる言葉は無意味である。
ゆえに今後我々はこの手の「主語があいまいで、何を謝っているかも分からず具体的な方策を述べない謝罪ともとれるような言い回し」を見張る必要がある。
本音と建前が大きく分離している日本の政治家の場合、具体的な何かがない限り、言っている言葉が信用できないのである。