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強姦から見た大東亜戦争史(6)南京事件における強姦の多さ

 
瀧川政次郎が 
南京市民の日本人に対する恐怖の念は、半歳を経た当時においてもなお冷めやらず、南京の婦女子は私がやさしく話しかけても返事もせずに逃げかくれした。私を乗せて走る洋車夫が私に語ったところによると、現在南京市内にいる姑娘(クーニャン)で日本兵の暴行を受けなかった者はひとりもない・・・」『新版 東京裁判をさばく(下)』より
と書いた南京事件の際の大量レイプである。 
 
南京安全区国際委員会が南京の日本大使館などに対して提出した文書」でも
 
第六三件 
 十二月十八日に報告を受けたもの―寧海路で日本兵は石油罐半分の灯油を少年から強奪、少年を殴打して、それを運ぶように要求した。頤和路一二号で、そこに難民として住んでいた男子をすべて追い出した後、娘数人を強姦した。ある喫茶店主の娘(十七歳)は七名の日本兵に輪姦され、十八日死亡した。莫干路五号に住む老人が報告するところでは、娘が数名の日本兵に輪姦されたとのことである。昨夜、金陵女子文理学院から三名の娘が拉致され、今朝、陶谷新村八号に戻ったが、ひどいありさまである。平安巷に住む娘一名が三名の日本兵に輪姦され死亡した。陰陽営では強姦・強奪・家探しがおこなわれている。(十二月十八日報告) (馬西華(訳音))
(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P107)
 
 という報告がなされている。
 
 
 
 南京事件における大量レイプ資料は、このブログの中にもすでにあるので参照していただきたい。
 
「現地にある日本軍が中国の婦女に暴行を加えている、みるに堪えぬ写真であった」
「大同に処女なし」
 
精神科医、早尾乕雄氏は『戦場心理ノ研究』 の中で
 「南京ニアル支那人傷兵収容所ニ於テ支那看護婦ガ強姦サレ部隊長ニ訴エ出タ。部隊長ハ「皇軍ノ兵ニ強姦サレタラ光栄ニ思ヘ」ト怒鳴ツタトイフ」
と書いている。
 
 
 
さて、以下は公文書資料から
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「10.対満政策 」。1938年4月2日。作成者は在シカゴ領事桝谷秀夫。レファレンスコード B08062016500
 
 
 
内容は、アメリカで「デイリーニュース」のスティール記者が南京事件をはじめ日本の対外関係に関する様々な記事を書いていることの報告です。
 
 
南京事件はリアルタイムで報道されていたという史料がまた一つ見つかったということですね。
 
 
 
機密第七七号
    昭和十三年四月二十八日接受 昭和十三年四月二日 
   在シカゴ 領事桝谷秀夫    外務大臣広田弘毅殿    
     米満通商ニ関スル「ステイール」ノ通信記事送附ノ件    
 
「デイリーニユース」ハ殆ント連日ノ如ク同社東洋特派員「ステイール」ノ極東通信ヲ掲載シ右通信ハ一般米人間ニ相当広ク愛読セラレ居ルカ「ス」ノ報導振リハ必スシモ我方ニ有利ナラス或ハ南京ニ於ケル我軍ノ軍紀馳緩婦女子ニ対スル暴行凌辱蘇満国境地方ニ於ケル日蘇両軍ノ防備振東京ニ於ケル「フアツシヨ」的傾向ノ強化思想展(FhanghtConting Exbilitian)ニ関スル揶揃外国人ニ対スル私服警官ノ尾行振等皮肉リタル通信ヲ寄セ居リカ三月二十六日新京発米満通商ニ関スル同人ノ記事ハ米満貿易特ニ満州国ト米国中西部地方トノ貿易カ満州国成立以来著シク増加シタル事実ヲ指摘シ同人ノ過去ニ於ケル報道振リカ我方ニ有利ナラサリシタケニ却テ当地一般米人ノ注意ヲ惹キ居レリヤニ存セラルルニ付何等御参考迄右新聞記事切抜一部送附申進ス
 
 
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「・・・南京ニ於ケル我軍ノ軍紀馳緩婦女子ニ対スル暴行凌辱・・」と書いてある事にとりあえずは注目。次はさらに詳しい。
 
 
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台湾総督官房外事課による「週間 時局特報(第十八号)」(1938年3月18日)という極秘扱いの文書。レファレンコード:C01007101400 (注2)
 
 
これは台湾総督府が収集していた情報の報告書である。
 
 
「一,南京占領史に残す此の汚辱   本篇は本報第十四号華僑紙に既に其の片鱗を発表されたるものであるが、更にS・T・紙に其の詳細が掲げられてゐるが為め此処に摘録した。内容重複する虞ある所以である。尚該紙にては特に見出し中に該記事が日本軍に依り検閲されたる旨附記して居り、南京占領史に残す強姦、殺戮-数万の支那人虐殺或は暴行さる-とのセンセーシヨナルに言辞を以て冒頭してゐるものである。」
 
 
という冒頭から始まる文書である(注3)
 
 
「幾何の婦女子が陵辱されたか確実にしる事は不可能であるが、推定によれば八千より二万人の多きに達してゐる様子であり、十一才より五十三才までの老若何れを不問ざる婦女子が血気にはやる兵士達の犠牲に供せられてゐる。避難民は彼等の乏しい金銭、衣服、寝具、食糧等殆んど余すものなき程度に掠奪せられ、此の状態はつい一,二週間前まで続いてゐるのである。早期には憲兵が不足して居り、之等の無秩序な兵士の行動を取締る事は殆んど不可能であつたであらうが、現在まで斯る行為が為されてゐるのは実に存外に耐へない次第である。昨今憲兵が増員された様であるが、夫までは彼等兵士は昼夜の別なく民家に侵入し、婦女を冒し、之を誘拐して行つた。支那人住民は日本軍は彼等に対して何等危害的態度に出る事はなく、其の目する処は彼等民衆の大敵たりし国民政府にありとの保証を得たのであるが、事実は戦慄のどん底に戦かねばならなかつたのだ。   
斯る行為は戦勝のどさくさ紛れに行はれたる事であり而して支那民衆の無知に乗じてぞつとする様な待遇をも彼等に加へて来たのであるが、此の事実は次第に世界の隅々まで普く知れ亙るに違ひない。」
 
 
など書かれている。
 
 
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こうした内容が公文書に書きのこされているのは稀である。
しかし、ここからも日本軍の強姦の多さがわかるはずである。