沖縄戦の真実、そして慰安婦問題へ
この人は、第2の吉田清治ともいうべき人物であろう。その証言は、まるで信用できないようなレベルのものであった。
しかし、この”第2の吉田清治”を右派論壇がこぞって宣伝し、賛美していた事を忘れてはならない。家永裁判には登場していないのだが、大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判 の際に登場して「決定的資料発掘」という歌い文句で右派論壇をにぎわしていた。
2008年2月16日、チャンネル桜がその証言を鳴り物入りで放映したかと思えば、23日に産経がスクープ、『正論』4月号で藤岡信勝が、『諸君』4月号に鴨野守(「世界日報」)(「世界日報」は3月3日と8日の紙面で詳細報道)が書き、右翼論壇をあげてのキャンペーンを張ったのである。
宮平秀幸の証言を宣伝する桜H]
「渡嘉敷と座間味の集団自決をした人々は”国に殉じる美しい心で死んだ人達”だと言い張り、そのためにはその”死”が軍の命令ではなく、自発的だったとしたい人々にとっては、宮平秀幸の証言は皇軍の名誉回復のチャンスと映ったのだろう。
■アエラ記者よ、もっと沖縄史を勉強せよ。
http://www16.atwiki.jp/_img/exlink.gifhttp://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20080301/
■世界日報記者よ、もつと沖縄史を勉強せよ。
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■アエラよ、お前もか……勉強不足の「アエラ」記者は「保守派沖縄ツアー」に同行していた。
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■毎日新聞ですでに証言していた……昔から宮平秀幸は「語り部」だった。
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■自決か玉砕か……
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■「宮平秀幸新証言」はヤラセか自作自演か。
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■「宮平秀幸新証言」はガセネタのだった? 宮平秀幸は「マリリンに会いたい」の飼い主だった。
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宮平秀幸は『小説新潮』1987年12月号に掲載された本田靖春氏のノンフィクション「座間味島1945」や1992年のビデオドキュメント「戦争を教えてください・沖縄編」(記録社)の中にすでに証言者として登場しているのだが、その中で語られている内容がこの時発掘されたという<新証言>とまるで違っていたのだ。さらに有力な証拠である初枝手記や本件原告の梅沢陳述書ともくい違う内容になっている。
審議が進むにつれ、彼らの様々な悪企みが露見して行ったが、この証言のもっとも重要な矛盾点は少年期の宮平秀幸が、本件訴訟の焦点となった梅澤隊長と宮里助役、あるいは宮城初枝などが押し問答をしている近くにいた事自体が否定されている点であろう。
<新証言>では、少年期の宮平秀幸は梅澤隊長と宮里助役、あるいは宮城初枝等が押し問答をしている近くにいて、その問答を聞いていた事になっているのだが、本田靖春のルポによると家族とともに自宅にいなければならないし、そういう話が『座間味村史・下巻』にも出ている。つまり、梅澤裕の「立派な演説」など、聞けるはずがないのに、そこにいたという事になっており、以後、こうした矛盾点を指摘されたキャンペーン右翼達は、この矛盾を取り繕うための詭弁を弄しはじめた。
<新証言>の真実性を証明しようとした藤岡信勝は、7月28日と8月28日の2度に渡って「意見書」を裁判所に提出している。この意見書の中で、本田靖春氏のノンフィクション「座間味島1945」は聞き取り間違いであると述べているのだが、その理由が傑作である。宮平秀幸の著述は「極限状況において肉親の体験と区別がつかず」「時刻については曖昧であり」「強く印象に残っているうことや自分が語りたいと思っている事を文脈ぬきに語る」ので、「合計100時間を会話した」藤岡でないと理解できないから、「本田は誤解した」というのである。
「肉親の体験と区別がついていない」「自分の語りたい事を文脈ぬきに語る」ような証言に証言価値があると言うのだから、実にとぼけた人間であると言うしかない。
そしてなんとかして、この秀幸証言の信ぴょう性を高めようと藤岡信勝は嘘のストーリーを捏造さえしているのだ。
すでに半年前には死んでいた人の行動を捏造した藤岡信勝
記憶社のビデオドキュメント「戦争を教えてください・沖縄編」についても、藤岡の嘘は笑える。このビデオドキュメントで、宮平秀幸が<新証言>で述べたようなことを述べていないのは、「田中村長が「あんなことをしゃべっちゃいかん」と圧力をかけたからだ」というのだ。
哀れ、原告側の徳永弁護士は逃げるように、そそくさと10秒あまりで話題を変えたという。
つまり藤岡は架空のストーリーを捏造していたのである。
田中村長が圧力をかけたのでビデオの証では正しい出来事を語れなかったのだという架空のストーリーを造って裁判所を騙そうとしたのである。ところが裁判官は騙されなかった。
藤岡は琉球新報(2008年10月21日)で自分の誤りを認めているが、故田中村長の名誉を捏造して傷つけた事については、まったく無視してしまっている。
謝罪ぐらいしろよ。
目取真俊もこう書いている。
これはただの事実誤認ではない。ありもしない村幹部らの圧力をでっちあげるために生みだされた、故田中氏の名誉を傷つける虚偽であり、藤岡氏には深い反省が求められる。
そして控訴審判決が言い渡され、以下のようにその虚偽を指摘している。
<秀幸新証言は、それまで自らが述べていた事とも明らかに矛盾し、不自然な変遷があり、内容的にも多くの証拠と齟齬している。>(250頁)
<秀幸新証言は明らかに虚言であると断じざるを得ず、上記関連証拠を含め到底採用できない。>(251頁)
当たり前と言えば当たり前だが。
もう一つ重要な捏造
この捏造もなかなか重要である。
「沖縄戦での集団自決者を援護法の対象とするために、渡嘉敷、座間味両島の日本軍が「集団自決を命令した」という工作が行われた」というのだ。
つまり、簡単に言えば「沖縄の集団自決を軍命令だった」とするのは、お金を得るための嘘だ・・・というのである。
この捏造は「産経新聞」平成一八年八月二七日の夕刊にも書かれている。
産経新聞の平成18年8月27日の夕刊は
との記事を掲載した。
しかし、判決はこの主張を退けている。
判決文では「そもそも初めから援護法の対象になっている事」がまず挙げられている。援護法の対象にすでになっている人々が、援護法の適用のために「軍命令」を創作したというストーリーが成立しないのは明らかである。
さらには「証言者の援護課への勤務の供述が、人事記録に反する事」また「赤松大尉の同意を得て厚生省に提出したという文書は保有されていない。(援護法に基づく給付は、今も続いているから、そのような文書が破棄されることはあり得ない)」と述べている。
明らかに捏造である。
しかもかなり程度が低い。
産経新聞は、もう20年間もしきりに「河野談話の元慰安婦達の証言に裏が取れていない」と宣伝しているが、裏を取らないで捏造小話を掲載しているのは、自分たちである事がまたも発覚したのである。新聞社とは思えない捏造小話については、このブログでも多数検証している。
読み間違いから始まる・・・
日本軍慰安婦問題に反対する面々のほとんどが、沖縄集団自決訴訟にも関わっているので、これについても整理しておくのが望ましいだろうと思って、これを書き始めたのだが中々面白いね。
元々、曽野綾子たちが「罪の巨塊」を「罪の巨魁」と勘違いし、読み間違えて始まった大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判 である。つまり「罪の巨塊」=「モノ」を「罪の巨魁」=「人」に読み変えることで、これが故人への名誉棄損であると訴えたのだった。
曽野綾子は『ある神話の背景』(初出1973年)においてこう述べている。
このような断定は私にはできぬ強いものである。「巨きい罪の巨塊」という最大級の告発の形を使うことは、私には、二つの理由から不可能である。第一に、一市民として、私はそれほどの確実さで事実の認定をすることができない。なぜなら私はそこにいあわせなかつたからである。第二に、人間として、私は、他人の心理、ことに「罪」をそれほどの明確さで証明することができない。なぜなら、私は神ではないからである。 (『ある神話の背景』(『集団自決の真実』に改題)ワック)
さらに平成12年(2000年)10月の司法制度改革審議会における曽野発言もある。
元の一人の新聞記者から「赤松神話はこれで覆されたということになりますが」と言われたので、私は「私は一度も赤松氏がついぞ自決命令を出さなかった、と言ってはいません。ただ今日までのところ、その証拠は出てきていない、と言うだけのことです。明日にも島の洞窟から、命令を書いた紙が出てくるかもしれないではないですか」と答えたのを覚えています。しかしこういう風評を元に「罪の巨塊」だと神の視点に立って断罪した人もいたのですから、それはまさに人間の立場を越えたリンチでありました。
明らかに誤読しており、にもかかわらずこんなことを公の場で言うなんて本当に痛い人である。
しかし、こういう風評をもとに「罪の巨魁」という神の視点に立って断罪した人もいたのです。それはまさに人間の立場を超えたリンチでありました。 (原告準備書面(1)要旨)
しかしこれは、大江健三郎にかけられたまったくの冤罪に過ぎなかった。大江健三郎の『沖縄ノート』には、「極悪人」「悪人」「大悪人」「悪い人」「罪人」などの表現が一度も使われていない。彼らは「罪の巨塊」を”人”と誤読することで、人間に対する名誉棄損だとしたのである。さらに大江は裁判官が「1点だけお聞きします。渡嘉敷の守備隊長については具体的なエピソードが書かれているのに、座間味の隊長についてはないが」と問われて、「ありません。裁判が始まるまでに2つの島で集団自決があったことは知っていたが、座間味の守備隊長の行動については知らなかったので、書いていない」と答えている。
個人攻撃をしたものではなかったにも関わらず、これを故人の名誉棄損だと訴えて裁判が始まり結果として、沖縄集団自決の真実が浮かび上がって来る。「一九四四年沖縄の日本軍(第三二軍)が”軍官民共生共死ノ一体化”を県民の指導方針としていた事」(『イデオロギーの問題となった集団自決という言葉の意味』石原昌家(沖縄国際大学教授))が浮き彫りとなった。
次々と立ち上がる沖縄県民たち
当初、大江健三郎・岩波側の支援組織はうまく活動できなかったという。2005年10月27日に第一回口頭弁論が始まったが、原告側が組織的に動き、傍聴席を埋めていた。家永裁判の時の支援組織はすでに無かったからだ。(『大江・岩波裁判勝訴と沖縄戦争体験継承の意義』村上有慶を参照)
ところが、2007年三月安倍政権下の文部省は、五社七冊の高校教科書に検定意見を付け、「日本軍の命令」という文言を消そうとした。これが沖縄の新聞を通して伝えられると沖縄県民の怒りが一挙に沸騰し、9月29日の11万人の決起集会がなされ、重い口を開いて証言が続出する。
それよりも少し前だが、自民党の県議員である仲里利信議長による「毒入りおにぎり」証言が、まさに議会の場でなされた。1945年、疎開している中に日本兵が現れ、子供の泣き声を消すために毒入りのおにぎりを手渡したのだという。家族にも語った事のないこの話をした後、仲里利信議長はこう述べた。「今我々が口をつむぐと戦争美化につながると思うのです。史実は史実としてきちんと後世に伝える。それは私達の責務です。」議会は、シーンと静まり返り、全会一致で「軍命削除検定意見の撤回」を求める決議が通ったのだ。
それは保守、革新を越えた全沖縄県民の総意であった。
こうして法廷を圧倒する新証言が裁判で相次ぐようになる。
渡嘉敷では自決命令がなされたその瞬間にその場にいた吉川勇助さんが陳述書を提出、座間味では垣花武一さんが陳述書を提出した。そして助役の実妹である宮平春子さん、宮村幸延さんの妻、文子さん、軍の経理だった宮里有理さん、上州幸子さん、・・・などの証言が次々になされた。
その証言には、「軍の命令で玉砕するように言われている」事がはっきりと述べられていた。上州幸子さんは軍人からいざとなったら「舌を噛み切ってでも死になさい」と言われたという。(『証言 沖縄「集団自決」』(謝花直美著・岩波新書))
これで「南京裁判」と「沖縄集団自決裁判」に、次々と決着がついた事になる。正しい歴史論説が日本に巣食う歴史修正論者たちを打ち破ったのである。
後、残っているのは「慰安婦問題」である。
日本の≪悪魔払いの儀式.≫は大詰めを迎えている。
(つづく)