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中山忠直の描く「娘子軍」ー最初から「女」を求めた皇軍の戦争


        中山忠直の報告、賛美した娘子軍

中山忠直という人が昔いた。明治生まれ(1895(明治28)~ 1957)、大正・昭和時代を翻訳者、詩人、漢方医学者、日ユ同祖論者、国家主義ジャーナリスト・・・などの多彩な活動をした人物である。創刊間もない「文藝春秋」雑誌「日本及日本人」、「報知新聞」にも執筆している。
「同胞よ日本を強くしようではないか。日本人種が世界一の神の選民である事を、強く自覚しようではないか。」

(昭和五年三月報知新聞所載)『日本人の偉さの研究』 中山忠直著 章華社版 昭和8年


なんていう国家主義者らしい文章を書いている。日本人種が世界一の神の選民」なのだそうだ。まるでナチスヒトラーの謳い文句みたいな。
ナチスは「ゲルマン民族こそ世界を支配する一等民族である」と怪しげなオカルト理論を楯に唱えていたが、当時の日本のマスコミにも、この手の「日本人こそ天孫民族」的な選民意識を煽っていた人物たちが多くいた。それは、単なる民族主義というよりも、「神道国家主義カルト」と言えるだろう。

この中山忠直が、33年6月に錦州から熱河省都の承徳に旅行し、自分が見聞き体験した娘子軍について『満蒙の旅(3)』に書いている。

満州へ来て、ことに承徳に来て、しみじみと娘子軍は実は文字の遊戯ではなく、実際に軍隊の一部であり、事実上の「軍」である事が分った。錦州の司令官から「女は必需品だから飛行機にのせるが」と云われた言葉を真に知ったのである。日本軍が進軍すると、幹部の第一に心配する事は、娘子軍の輸出である。ーー日本軍が支那婦人を冒さぬのは、娘子軍あればこそで、彼らは決して単なる淫売ではない!」



繰り返すが、これは1933年の話である。まだ、満州事変が引き起こされてから、2年程度しか経ていない。やがて38年の初めには慰安所の大量設置時代を迎えるのだが、それよりも5年も前の話なのだ。もちろん岡村大将はすでに慰安所を造る命令を出していた訳だが、この時期にはすでに娘子軍関東軍の「必需品」として繁盛した様子がよく分かる。後に慰安婦は軍需物資扱いとして兵站部が扱うようになるのだが、もうこの時代から兵站の一部だったようである。
軍の幹部の第一に心配する事は、娘子軍の輸出」だそうだ。
戦場に行くのに、女抜きでは過ごせなかったらしい。

         最初から最後まで、上官から初年兵まで、
         「女とヤル」事ばかり考え続けていた皇軍

慰安所はこんな人達が、こんな風にして造ったが、
最初から最後まで、女を求めてウロウロしていたのが皇軍だった。


敗戦が濃厚となり、制空権も制海権も失いながらも、皇軍慰安所だけは造ろうとしている。例えば、カーニコバル島のような僻地にさえ、5軒の慰安所があったが、「453月のアンダマン補給作戦で日本軍は18人の慰安婦を送り込む」のである。慰安婦と戦場の性』P117)

453月と言えば、そんな余裕は無いはずだが、なぜか慰安所は増員している。米軍に追われながら看護婦を慰安婦状態にした例さえ、記録されており『俘虜記』大岡昇平新潮文庫、P374)、アンボンでは448月に150人近い女性を退去させたが、453月、まさに敗戦が濃厚な時期に慰安所が再興され、憲兵によって強制連行され泣き叫ぶ女性達の悲鳴の中、5月に慰安所がオープンした禾晴道『海軍特別警察隊』)(吉見義明従軍慰安婦P.126

磯崎隆子氏は、44年の秋、マニラで軍の副官から「ごくつぶし」と怒鳴られ「慰安婦になるなら面倒を見てやる」と持ちかけられたというが、その後サイゴンに飛ぶ高官からも「慰安婦になるなら飛行機に便上させてやる」と声を掛けられている(磯崎隆子『生ある限りルソンへ』講談社P48)(吉見義明従軍慰安婦P.9192慰安婦と戦場の性』P395)44年の秋と言えば、すでに6月にはマリアナ沖海戦で敗北し79日にはマリアナ諸島を喪失、東條英機内閣が倒れて22日には小磯内閣が誕生している。10月はフィリピンでパラオ諸島とモロタイ島の攻略とレイテ沖海戦がなされており、すでに敗色濃厚な時期である。そんな時期に副官や高官が、発情期の馬のようにセックスの事しか頭にないようでは、戦争に負けるのも当然であろう。道理で「ベイビューホテルの事件」のような陰惨な「慰安婦」状態集団強姦事件が起るはずである。(『ベイビューホテルの事件』http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper101.htm

日本軍が決戦を挑もうとした沖縄でも44年の4月以降、決戦に備えて皇軍が沖縄に集まると各部隊は競って慰安所を設置し沖縄の女性が集められ、秋ごろには朝鮮からも集められ、130か所もの慰安所が造られた季刊戦争責任第63号『沖縄戦における日本軍慰安婦制度の展開』(4)古賀徳子)。「全軍撤退期」に入ってさえ、新規に慰安所を造っていたのである。米軍による砲弾の中でさえ、軍は朝鮮人慰安婦を連れ歩いていた。
上海でも営業は続き、めずらしく業者側の書いた華公平氏『従軍慰安所[海乃家]の伝言――海軍特別陸戦隊指定の 慰安婦たち』(日本機関紙出版センター、1992年、P106にも、「(上海では)終戦の前の日までお客があった」と書いている。この慰安所は海軍の軍属専門だが、実に余裕タップリである。早尾乕雄軍医が「日本軍人ガ、戦争ニ来テ大キナ顔ヲシテ慰安所ヘ暇サヘアレバ通フ姿ヲ見テ、支那人ハ笑ツテ居ツタ」戦場ニ於ケル特殊現象ト其対策」「十七(ママ)、性欲ト強姦」P245と1937,8年の様子を書いているように、日本軍慰安所発祥の地・上海では最初から最後まで慰安所が栄えていた。「暇さえあれば通っていた」からである。
 
平原大隊長の回想によれば、両市塘に駐留していた前の警備隊長は、治安維持会長に、まず女を差し出すよう要求したというが原一男山砲の芷江作戦)、皇軍はその後も「女」の事ばかり考え、それは末期まで続いた。これまで見て来たように敗戦まじかまで増員、増設しているのである。武昌では1945年になって53人の慰安婦を集めている木下博民著『戦場彷徨ー鯨部隊一兵士の大陸青春記』p216~218

1944年インパール作戦で物資の運搬が盛んになされる中、貨車4、5両の“女人”列車があったという。吉川利治は十泰会刊行書から引用して「表向きは慰問団とされていたが、実態は特殊なサービス部隊だったらしい」と書いている。(吉川利治『泰緬鉄道ー機密文書が明かすアジア太平洋戦争』p287)
 
いったい皇軍は何のために戦争を始めたのだろうか?
大東亜共栄圏」とは名ばかりで、実はアジアの女たちを漁色するためにこの戦争をしていたようにも見える。セックス無しで生きていけない訳ではないだろうに、にもかかわらずあらゆるところで強姦は蔓延し、あらゆる所で女性を供出させては慰安所を造っている。
戦争の最初から最後まで、将校から初年兵まで、なぜこんな風に「女とヤル」事ばかり考え続けていたのか?まるで理解するのが難しいのである。結局、それは数世紀に渡って続いた淫乱の祭りの風習のなせる業であったのだろう。

江戸時代、日本の村村には、乱交の祭りが繰り広げられ、あらゆる街道と都市に遊郭が繁栄した。お祭りの日にもなれば、「雑魚寝」と「夜這い」が容認され、遊女が男達を誘った。こうして淫乱の傾向を刺激されて来た我が国では、頭の中がソッチ方面の事ばかり・・・という人がたくさんいたのかも知れない。

(次回につづく)