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慰安婦資料用 元日本兵の戦記・日記(4).

 
 
 高畠喜次 『ブーゲンビル戦記』 1978
 
1942、1月
 
「頭は手ぬぐいで姉さんかぶり、戦地に似合わない派手な色彩に添えて、大掃除よろしく、5,6人の女たちが立ち働いているのでおかしいとは思ったが、特用倉庫員だと聞かされた。占領と同時にサイパンからやってきたという。」
 
*特用倉庫員=海軍では慰安婦をそう呼んだ。
 
「出入り口のところに海軍特用倉庫の看板があり、高札が掲げられている。
  海軍特用倉庫 
  1、下士官兵の使用時間は午前9時より、午後4時までとす
  1、一回の使用料、1金壱円弐拾銭
などと書いてあった」
 
「・・・見張り員が変な声を発した。貨物船に大勢の女群を発見したのである。これはトラック島に集結していた特用倉庫員の緊急輸送でラバウル占領以来、あの地には日本の女性はひとりもいないのであってラバウルへ女と油、作戦に重要な贈り物であった。」
 

アンボン島で
こんな小さな島にも4軒の慰安所を造り、泣き叫ぶ現地女性を入れたという話である。
どこにでも慰安所だけは欠かせない皇軍
 
 
禾晴道 『海軍特別警察隊 アンボン島BC級戦犯の手記』 1975
アンボン
1944、45
海軍特別警察隊(憲兵に相当)の禾(のぎ)晴道中尉の手記
 
禾中尉が自ら「慰安婦狩り」と題する項目には、海軍司令部が慰安婦を強制的に徴集することを容認した命令を出し、政務隊(民政警察)が住民の強い抵抗の中で女性たちを強引に連行した。

慰安婦狩り

アンボン島のような小さなケシ粒のような小さな島にも、中国大陸の戦線と同じように、男性の生理的欲求を処理するための「慰安所」が設置されていた。

日本国内にもあった「赤線地区」であり、昔は「女郎屋」と呼ばれていた売春宿であり、軍隊がつくっていた公認のものであった。

そこには日本女性も動員されていたし、もちろん現地人女性が多く集められて運営されていた。彼女たちは、軍人を慰める目的であることから「慰安婦」と呼ばれていた。国家権力による強姦強要である。

わたしがアンボンに着任した1944年3月ごろはまだ慰安所があったが、日本人女性はすでに後方に送られ、ほとんど現地人女性だった。

それは44年8月の大空襲まで続けられたが、この大空襲を境に日本人料理屋も後方に送られ、現地人女性もいっさい解散させられてしまった。

(中略)

そして再び現地人の女性を集めて、慰安所をつくろうという動きが海軍指令部からだされていた。

それまでも毎月一回司令部の庭で政務会議が開かれていた。政務会議というのは、島の防衛を中心とした警備隊の任務本来の会議とはちがって、島の民政に関する会議だった。この島の警備に民政関係の方針をどうするとか、民政関係からみて警備隊はこの点にとくに注意してもらいたいとか、本質的に対立する戦争目的の警備隊と民政部の矛盾をできるだけ解決していこうとする会議だった。

出席者は各警備隊の司令・副長、民政部は当時政務隊となって成良司政官が政務隊長として出席し、民政警察の木村司政官も顔をだしていた。セラム新聞社から青木さん、インドネシア語新聞は木元記者、宗教関係からはキリスト教牧師の花房氏か若い加藤牧師だった。特警隊からは、わたし、司令部からは、参謀長・先任参謀・副官であった。陸軍側からはアンボン地区の憲兵分隊長、陸軍少佐沼田氏も出席していた。

情報の交換とアンボン島の民政に関する諸問題が討議されていた。

その日の政務会議は少し変わっていた。議題はどうやって至急に元のような慰安所をつくるために慰安婦を多く集めるかということだった。そのために、慰安婦を集めることと治安上起きるかもしれない民衆の反感について討議されることになった。

四南遣艦隊司令部の先任参謀が中心で開かれ運営されていたが、実際は副官の大島主計大尉が一人でガアガアしゃべって会議は進行していた。

(中略)

つぎは、いったいだれがそれをやるかということになった。

出席者がわたしの顔を見た。恐れられている特警隊の力をもってやれば簡単だし、当然そうだろうという空気があった。

特警隊なら通訳もいるし、おどしもきくからどうか」。副官がそう発言したので、わたしは立ちあがった。

「もちろん、副官のいわれるようにわたしの隊で集めれば、早くやれるでしょう。それは慰安所の設置ということが、もっとも大切なことだということでしたらうなずけますが、特警隊は島の治安関係の任務が、もっとも大切な第一任務です。女性集めを表面にたってやれば、住民の反感は直接目に見えない発案者にではなく、直接住民に接する行為者にむけられるでしょう。それが人情ではないでしょうか。そうなれば治安維持を任務としている特警隊の信頼はまったくなくなると思います。特警隊は協力することはできます。女性のリストをつくり現地人の警察官とか、住民の中のボスを利用して、反感が直接日本軍にくることを防ぐ方法があります」。

わたしは、もっともらしくそういった。めんどうなことから、なるべく逃げようという下心があった。そうするには、やはり大義名分が必要だった。

副官の大島主計大尉は、なにがなんでもやってやるぞ、という決意を顔一面に表して、「司令部の方針としては、多少の強制があっても、できるだけ多く集めること、そのためには宣撫用の物資も用意する。いまのところ集める場所は、海軍病院の近くにある元の神学校の校舎を使用する予定でいる。集まってくる女には、当分の間、うまい食事を腹いっぱい食べさせて共同生活をさせる。その間に、来てよかったという空気をつくらせてうわさになるようにしていきたい。そして、ひとりひとりの女性から、慰安婦として働いてもよいという承諾書をとって、自由意志で集まったようにすることにしています」。

そこまで準備が考えられて、承諾書までとる話にはわたしも驚いた。副官は法科でもでているのか、と思われた。

こんな小さな島に、これだけの銃を持った日本軍が陣地をつくっているのだから、日本軍の要求することを自由意志で拒否もでき、承諾もするという対等な自由が、本当に存在すると思っている考え方もじつに自分勝手であっただろうが、そんなことに気づいていなかった。

(中略)

結局女集めは民政関係の現地人警察を指導している政務隊(民政警察)におしつけられ、副官が中心になり、特警隊は協力し、各警備隊・派遣隊もできるだけ候補者のリストをだして協力することになった。

民政警察の指導にあたっていた木村司政官が敗戦後、戦犯容疑者として収容されたとき話してくれたが、その時の女性集めにはそうとう苦しいことがあったことを知った。

「あの慰安婦集めには、まったくひどいめに会いましたよ。サパロワ島で、リストに報告されていた娘を強引に船に乗せようとしたとき、いまでも忘れられないが、娘たちの住んでいた部落の住民が、ぞくぞくと港に集まって船に近づいてきて、娘を返せ!娘を返せ!と叫んだ声が耳に残っていますよ。こぶしをふりあげた住民の集団は恐ろしかったですよ。思わず腰のピストルに手をかけましたよ。思い出しても、ゾーッとしますよ。敗れた日本で、占領軍に日本の娘があんなにされたんでは、だれでも怒るでしょうよ」。

わたしは、そこまで強制されたとは知らなかった。特警隊からも売春容疑者を捕らえて、収容所に送って協力いていた。それは犯罪容疑者として捕らえていた。

 
アンボン島の主計将校の眼から見ると
 海軍経理学校補修学生第十期文集刊行委員会企画編集『滄溟』 1983
所収312Pー[坂部康正氏の手記]
 
坂部康正氏は、海軍第25特別根拠地隊司令部付きの主計将校
1945
 
 命の心配がなく、食事も充分と言う事となると夜考えるのは女の事、なんで日本女性を泡を食って帰したか、今更くやんでも始まらない。我々ガンルームは始めから現地女性とうまくやっていたから不自由はなかったが、収まらないのは偉いさん達、特にM参謀はこの件についてご熱心で、転勤前に山形長官からお許しを得ているからという事で、アンボンに東西南北の四つのクラブ(慰安所)を設け約一〇〇名の慰安婦を現地調達する案を出された。その案とはマレー語で、「日本軍将兵と姦を通じたるものは厳罰に処する」という布告を各町村に張り出させ、密告を奨励し、その情報に基づいて現住民警察官を使って日本将兵とよい仲になっているものを探し出し、きめられた建物に収容する。その中から美人で病気のないものを慰安婦としてそれぞれのクラブで働かせるという計画で、我々の様に現住民婦女子と恋仲になっている者には大恐慌で、この慰安婦狩りの間は夜歩きも出来なかった。
日本の兵隊さんとチンタ(恋人)になるのは彼等も喜ぶが、不特定多数の兵隊さんと強制収用された処で、いくら金や物がもらえるからと言って男をとらせられるのは喜ぶ筈がない。クラブで泣き叫ぶインドネシア若い女性の声を私も何度も聞いて暗い気持ちになったものだ。
果たして敗戦後、この事がオランダ軍にばれて、現住民裁判が行われたが、この計画者は既にアンボンに居らず、それらの女性をひっぱった現地住民の警官達がやり玉に上って処罰された程度で終ってしまった。彼女達が知っているのはひっぱった警官だけで、この事件の真相は闇に沈んだ。
 
原一男『山砲の江作戦』
45年6月
立山砲兵第二連隊の原一男第一大隊長(戦後、自衛隊陸将補)
湖北省洪橋付近に集結、部下の意見具申を受け
慰安所の開設
経理室が6名の中国人慰安婦を集めた

 慰安所の開設に当たって最大の問題は、軍票の価値が暴落し、兵たちが受け取る毎月の棒給の中から支払う軍票では、慰安婦たちの生活が成り立たないということであった。そこで大隊本部の経理室で慰安婦たちが稼いだ軍票に相当する生活物資を彼女たちに与えるという制度にした。経理室が彼女たちに与える生活物資の主力は、現地で徴発した食糧・布類であったと記憶している。兵の中には徴発に出かけた際、個人的に中国の金品や紙幣を略奪し、自分が遊んだ慰安婦に与える可能性もあると思われたので、経理室の供給する物資は思い切って潤沢にするよう指示した。

竹井慶有 『南の島に下駄はいて』 1992
水上偵察機
1944 
 
建物の出入り口はなく、代わりに、荒むしろが一枚垂れ下がっているだけの間取りで、この荒むしろが内部と外部の境界を形つくっている。
 
「何事ですか?」と、並んでいる兵隊にたずねたら、「ここはラバウル慰安所だ。毎日こんなに繁盛してますよ」と教えてくれた。

武昌に関してだが軍医 麻生徹男は 『上海から上海へ 戦線女人考 花柳病の積極的予防法』の中で武昌憲兵隊が拷問を行っていた様子を書いている。
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武昌憲兵
 昭和16年3月中旬、私は武漢の地を去る事となった。写真中真ん中の建物は、武昌憲兵隊、その後ろ小道を隔て私の勤務の場所、兵站病院レントゲン室があった。嫌でも聞こえる訊問の大声、悲鳴、水攻め。死者を甦らせよ、もう一事聞きたい事ありと私に命じる憲兵殿の語気、それは今でも悪夢である。この建物にはYMの三角マークと武昌基督教青年会と書いてある。
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憲兵隊の拷問のすざましさがよくわかる。

佐々木元勝 『野戦郵便旗』1973
 
1938年、2月2日
中国○県(三ずいに除)
 
廃屋に慰安所が開業している。
 
南京から○県にいくと、この辺鄙な廃墟の街にも慰安所が2つあり、大阪あたりから日本の女が来ていた。軍隊が進むところ、彼女らもまた従う。
 
上海揚樹浦通り大連○頭近くの野戦郵便局近く
1937,11
「上海寮、皇軍将兵慰安所」「ビール、サイダー、美人多数」・・・真昼女の金属性の声が聞こえる。ここは半島人で営業しているとかであった。
 
『続戦郵便旗』1973
九江、武昌、漢口のいたるところに慰安所が設けられた。
1938、3
蘇州から上海、上海から抗州にいくとき
「兵隊のいっぱい乗った貨車で出かける。兵隊の中に『慰安婦も同席していた」
 
38年5月
徐州戦の前進基地で
「街の中も空家ばかりである。乞食と・・・難民ばかりうろうろしている。こんな汚い雑○(水に日)に慰安所が14もある。半島人の女たちが布団をまとめ、引越しする姿が見受けられた。」
 
1938,9,16 九江
「彼女らの外出は厳禁」
 
1938、12 丘州
慰安所もできている。
 
1938年12 武昌
裏通りに半島人慰安所がある。その少し先に大阪の金星楼という日本人慰安所も。
 
39、1,18
武昌の南東80キロ下陸という部落
「この付近にたいした家屋はない。はるか無効の田園のなかの家屋は慰安所になっている。」
 
39,2,26 漢口の中山路
裏通りの道に将校倶楽部(慰安所)がところどころある。
浜崎富蔵『どろんこの兵』1970
 
1937年7月から3年間戦場にいた手記を元にした実録
中国、寧国は南京の西
1938,6、20
 
寧国へ先発隊員として来た兵たちは、何をさておいて、ピ買い(売春婦求め)にいく。宿舎について、門前でこの奥地では初めての内地婦人を見る。
 
1938年12月25日 武昌
慰安所の見物を弓指君の案内をする。二三軒まわったが、大入り満員の状態で物ほしそうな兵らが並び、順番の顔がにっこり笑った。
 

第三師団衛生隊回顧録編集委員会『第三師団衛生隊回顧録1979
「杉野茂氏の手記」(p102)

軍律厳しきなかにも粋な計らいと言いましょうか、慰安所が開設されることになりました。我が隊からは私が開設委員として派遣されることになりました。 

    〔中略〕

その日から自治委員会の人と一緒にクーニャン探しに歩き回りました。四十七士になぞらえて、四十七人を求めることにしました。委員会の人はどこにどんな娘が居るかよく知っていました。顔にススを塗って天井裏から降りて来る娘もおりました。昔から美人と言えば、小野の小町か照る手の姫か支那楊貴妃かと言われたその楊貴妃の生れ故郷の揚州ですから、美麗な子が多かった。 
 
 

新京陸軍経理学校第五期生記念文集編集委員会事務局編『追憶』上、1985
「宮谷重雄氏の手記」(p146~147) 

 やがて洛陽作戦が始まった。月余で洛陽が陥落してホッとしていると、数日後、師団の後方参謀が直接呼びに来たので、何事ならんと出頭すると、
 「宮谷少尉は、至急民家を改装して兵隊用の慰安所を作れ。ついでに洛陽で女も集めて来い」
という命令である。もうこれは、メチャクチャである。大学を出て、なんの因果でピー屋造りをさせられるのか、その上女衒まがいの女集めまでさせられたのである。何とも情けない思いであったが、命令である。同行していた大工上がりの軍属に慰安所造りの指示を与え、塩を二、三俵トラックに積んで、洛陽市内に女狩りに赴いたのである。どうもこの作命は、後で聞いたところによると、包頭での慰安所造りの成功が効いていたそうである。 
 ともかく、洛陽をトラックでグルグル回り、私のカンも良かったのか、二、三軒で十数人の女集めに成功して、部隊に連れてくることができたのである。「あいつは物集めがウマイ」という評判が立って、その後、随分とこきつかわれるキッカケとなってしまった。どうも人間、何が不幸の種になるか分からないものである。 

     〔中略〕

 兵団は武漢、長沙を経て衡陽から桂林に向かうことになった。ちょうど、桂林の中間地点の村落で、作戦準備のため長期駐屯することが決まり、旅団は分散して宿営することになった。数日たつと、また作戦参謀が私を呼び出した。そしてまたまた、慰安所を作れ、衡陽で女を集めてこいという命令である。私もつくずくいやになったが、作命には背けない。
 

 

 
 
水野靖夫 『日本軍戦った日本兵』 1974
憲兵志願兵
青島
1939
 
「青島の慰安所はれっきとした日本海軍直営の店だったのである。」
 
若い女性をとらえると、日本の兵隊たちはまず両手を開かせて、手の平を調べた。農民や労働者の手であれば、その場でおもちゃにしたり、県城につれていって慰安婦や金持ちの妾や小間使いにうりとばした。白い手の女は、八路軍の手先の疑いありとして、憲兵の手にわたされ、拷問のあげくに虐待されることが多かった。」

 
 
 
 森利『モリトシの兵隊物語ー一兵士の哀歓ー』1988227~228                                         私は三日間の休養日に開設する特設慰安所の長を命ぜられる。先ず、前線司令部のある○城の軍政部に、自動車二台と一個分隊の警備兵を伴って出頭する。軍政部の係官と書類手続きを済ませ、二十五人の慰安婦と賄婦、監督(やりてばばあ)、総数三十人を受領する。彼女等は朝鮮ピーと違い、現地で徴発した支那ピーで、半分は素人、半分がセミプロ程度のようだった。軍政部から金が支払われている。二台の車に分乗させ、逃亡されないように警備も分乗する。                                                                                                                                   〔中略〕                                                                                                  翌日九時から開業である。それまでに軍医殿の検診を終わらねばならない。衛生軍曹がクレゾール石鹸液を準備する。軍医は至極事務的に終わらせようとする。ところが彼女達は初めての検診に驚き、軍医が薄いゴム手袋をはめて検診しようとすると受けつけない。これで意外に時間がかかる。また、監督を呼んで説明し、性病検査であること、決して恐ろしいものではないことを納得させる。私も軍医に立ち会って彼女達を見る。なんと驚いたことに、彼女達は例外なく不具者である。足の指が六本と手の指が四本ずつ合計すると二十本、また、足の指が十一本に手の指が九本もある。甚だしく不自然である。顔だちはよく二十歳前の女性である。軍の命令で軍政部が集めた慰安婦は、倫理道徳の進んだ中国社会では、苦肉の策として、この不幸な彼女達に慰安婦の仕事を引き受けて貰うしか方法がなかったものだろう。中国では大都会に行かなければ賎業婦はいない。そして日本よりはるかに性道徳心が高い。だから普通の縁組の出来ない不具者が、この方面を押しつけられるのだろう。軍政部の指示で、止むなく治安維持会が彼女達に犠牲になってもらったようだ。彼女達も表情こそ若さが溢れてはいるが、どことなく淋しさがただよい、生まれ持っての不幸を感じているようだ。軍規を保つための性欲処理は合法的な手段とはいいながら、哀れであり、人間の業の深さに嫌な気持ちになる。