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戦争は俺達の天下だ!上に立つ軍人たちのゼイタク三昧(その1)

 
「軍人は小児に近いものである」と芥川龍之介は書いたが『 侏儒 しゅじゅ の言葉』)、その小児に近い人間たちが、大日本帝国のように強力な国家の権力を握ってしまうと世界はどれほど危険にさらされるか?という壮大な実験がなされたのが、第2次世界大戦中のアジアであった。「鬼畜米英」と臣民の憎悪を煽りながら、一方では各地を侵略し様々な虐殺を繰り広げ、一方ではまさに小児性丸出しで、物欲と性欲追及に明け暮れる高級将校の世界は、さらがら地獄の悪鬼の饗宴のようである。
彼らー高級将校たちは一体、どんな生活をしていたのか?
このカテゴリではとことん追求して行こうと思っている。
 
 
 
            将校たちの生活
 
 
『歌集・補充兵の歌』という文庫本の中にこんな歌が掲載されている。
(38ページ)

   ピイ買いに みな出でゆきし 夜を守り 風呂沸かし待つ 将校当番われは

おせじにも上手な歌とは言えないが、この歌の情景がよく分かる。

背景となっているのは、昭和17年の満州

おそらく牡丹江であろう。

本の作者は、青木一雄氏であり昭和16年7月、応召、関東軍第16野戦自動車廠に配属されている。配属されてみると軍隊は噂に違わぬ酷いところだった。上官の命令は天皇の命令とする軍では、たとえそれが私生活に関することでも、上官に逆らうことなどできないのである。

著者の解説によると

将校宿舎から2キロほど離れた満州人の村に将校専用の娼家があった。そこにいる女性を『ピイ』と呼んでいた。戦地加俸を支給されていた将校たちは、カネとヒマにまかせ毎夜のごとく連れだって出かけて行った。そして、一パイ機嫌で戻ってきて、風呂に入って汗を流すのである。留守番の将校当番は『主人達』がいつ御帰館になってもいいように、風呂加減を見ながら待っているのである。
・・・という。

「将校専用の娼家」があり、「将校たちは、カネとヒマにまかせ毎夜のごとく連れだって出かけて行った」というのだが、戦地でお気楽なものである。実のところ日本の将校は、どこでもこんな感じだった。あんまりお気楽に酒と性の進軍をしているので、ラバウルに赴いた木村昇吉は、「もうこの戦争は勝目がないだろう」と嘆いたという。
独有91ラバウル戦友会編 『独立有線91中隊史・遙かなるラバウル p46 1982)

結局、その予測通りの未来だったわけだが。

 
それはともかく、ここでこの歌の作者は、「戦地加俸を支給されていた」ので毎夜遊んでいたという。加俸の他にも、戦地でお金の造り方はいろいろあり、ぜいたく三昧ができたのである。もちろんお金を造る才覚がなくても何の問題も無い。占領地である。村人の長を連れて来て、食料や酒、女を求めればいい。銃を突きつけたり、脅迫する必要は無い。やんわりと言えばよいのである。「村長、兵たちが暴行しないように女性を何人か連れて来て欲しいのだが」こう言えば、皇軍が南京で働いた凶暴な噂を聞いている住民たちは”自発的に”そうしてくれる訳だ。もちろん戦地でお金の代わりに使う軍票を発行していたのも皇軍である以上、ある程度地位がある人物たちには使い放題だったであろう。この問題についてもここで述べて行くつもりである。

軍のお偉方に幸運をもたらすのは、軍票や占領した村々ばかりではない。皇軍にはそれにつき従うような商売人、一旗組がついてまわった。この一旗組は、軍の侵略した地域に行くとそこで軍相手の商売を始める。もともとの地元の料亭などが誘致されることもあるが、いずれにせよ軍に寄生する人々であり、それだけにお偉方が何かを要求すればそれに従った。もちろん”女性関係”もだ。
まず侵略地に料亭がどのように進出したかを見てみよう。

 


          日本軍の後には料亭が従う

昭南(シンガポール)では、こんな感じだったという。

日本軍の後には料亭が従うといわれるくらいで、驚くほどの数の料亭が進出してきていた。これは昭南に限らず、南方占領地域の主要都市では、みなそうであった。もちろん戦前からのものもあったが、大多数は占領後に進出してきたものである。一番盛んなときは、東京から来た芸妓が昭南に200人いたという

(本田忠尚 『茨木機関潜行記』 p12 図書出版社 1988)
 
「日本軍の後には料亭が従う」と当時から言われていたのである。

南方の兵站基地となった昭南における料亭の開設も、兵站部の担当であった。

篠崎護によると軍が接収した英国人のデパートに白木屋を入れ、女学校を「接収」して「料亭」を造ったようだ。「接収」とは聞こえがいいが、要するに「略奪」の事である。どこから見ても「アジアの解放」ではなく「アジアの乗っ取り」であった。

それまで日本人の渡航を抑えていた陸軍省第六委員会は、軍政要員の外に続々と日本商社を送り込んできた。白木屋デパートは、英国のデパートであったホワイト・ウェーを接収して軍の酒保を開いた・・・(中略)・・・・ソファイア路にあった南幸女学校を軍兵站部が接収していたが、やがて東京大森海岸の料亭『かにや』が進出してきて軍の高級料亭となった。ケーンヒル路の南洋女学校も軍の料亭となり、清水建設の手で立派な日本風に改造されて絃歌と嬌声が周囲に響いた。スコット路には海軍の筑紫、バルモーラル路には五十鈴、さらにジョホールバルには、艦隊用として新喜楽が開店した。五千万弗献金の推進者であった高瀬嘱託は軍政部長の強力なバックアップで伊豆長岡温泉から有名な旅館を呼び寄せた。一行は総勢百名余の大所帯で、大和部隊と大書した旗を押し立て、畳、食器、味噌、醤油、漬物、膳部、箸まで持ち込み、大勢の婦女子を連れて来た。

(篠崎護 シンガポール占領秘録』 p81、原書房、1976)

れは昭和17年の話である。

陸軍報道班員として太平洋戦争初期の数ヶ月間をシンガポールに駐在した大林清もこう述べている。

・・・シンガポールには、南方総軍報道部のある高層ビルの裏側住宅地一帯をヨシワラと称して、兵用・下士官用・下級将校用の慰安所が軒を並べ、その高地を下ると、前庭のある高級住宅を接収した佐官以上用の料亭が、夜毎その前庭に佐官の黄色い旗を立てた乗用車を駐車させていた。更にその先のスコット・ロードという住宅街は、海軍士官用料亭街と化していて、それらの料亭の中には柳橋の待合業者の経営する店もあった。
(大林清 玉の井挽歌』 p199、青蛙房、1983)
佐官以上の料亭が夜毎その前庭に佐官の黄色い旗を立てた乗用車を駐車させていたそうだ。
 

昭和17年からシンガポールで特別警察隊長をしていた大西覚による描写も具体的である。

昭南における料亭開設の乱脈ぶりは物すごく、南幸女学校、南洋女学校などは建設会社の手で改装して、立派な日本風の料亭とし、絃歌と嬌声が響いた。その他適当な建物があると、すぐ料亭または慰安所となった。その数は何十軒もあったようだ。

(大西覚 『秘録昭南華僑粛清事件』 p
233 金剛出版、1977)

軍が進出して、建物を接収する。そこで建設会社がすぐにやってきて、改装し、料亭や慰安所が乱脈につくられた。すると女性たちはどのように集められたのか?

これら料亭の昭南に乗込む姿も変っている。
大和部隊の旗を押し立て、畳、膳部、食器、味噌、醤油までも御用船で運び、大勢の婦女子を連れて来る。これら婦女子は、タイピストまたは事務員として募集した者を、酒席のサービスを強制された者もあったと聞く、どうしても嫌という者は一部商社に勤めた。内地の大料亭で、当初から芸妓、酌婦などを連れて来たものは問題はなかった。

(大西覚 『秘録昭南華僑粛清事件』 p234 金剛出版、1977)
篠崎護も

一行は総勢百名余の大所帯で、大和部隊と大書した旗を押し立て、畳、食器、味噌、醤油、漬物、膳部、箸まで持ち込み、大勢の婦女子を連れて来た。これ等妙齢の美女は、日本でタイピスト、事務員として応募して来たが、昭南に着くと、酒席のサービスを強いられて失望した

(篠崎護 『シンガポール占領秘録』 p81、原書房、1976)
と書いている。
 
「これら婦女子は、タイピストまたは事務員として募集した者を、酒席のサービスを強制された者もあったと聞く」あるいは「事務員として応募してきたが、サービスを強いられた」というのだが、「陸軍省内務局」と言われた時代であり、警察はろくに取り締まることもできなかったようだ。

慰問団の一員としてシンガポールに訪れた徳川夢声はこの強制された娘たちに出会う。17年11月の話である。
娘たちは軍人に手篭にされて、自殺を考えたと涙するのである。

 
軍当事者とゼゲン師どもは、オクメンもなく、娘たちの身元を調査し、美醜を選び、立派な花嫁たるの資格ある処女たちを、煙草や酒を前線に送るくらいの気もちで、配給したのであった。なんたる陋劣! なんたる残酷! --あらっ、こんな約束じゃなかった。と気がついた時は、雲煙万里、もうどうしようもない所に置かれていた。その1部隊が、この偕行社で酒席の芸妓代用品とされているのだ。お酌をやらされる。手を握られる。お尻をなでられる。接吻は腕力で強請される。--が、そんなナマヤサシイことでは、大和部隊の任務は完遂されたのでない。ちゃんと、宿泊の設備アリだ。中には諦めて、唯々諾々、皇軍に協力している娘もあるようだ。中にはまた、寧ろ嬉々として毎夜を楽しむという、モトモト不良性の連中もあったかもしれない。然し、--何度も自殺しようかと思いましたの。と、涙をふきつつ、(夢声らの慰問団の一員として)慰問に来た同性の彩子嬢なり、みどり女史なりに、悲惨な身の上を嘆く娘さんたちは、実に可哀そうではないか」

徳川夢声 夢声戦争日記(2)』 中公文庫、1977)

「お酌をやらされる。手を握られる。お尻をなでられる。接吻は腕力で強請される。」・・・などという情景が展開したというのである。これが第一級資料の一つである 夢声戦争日記(2)』 に記録されていることなのである。もちろん高級将校の全てがそうだったのではない。この手の風潮に流されない将校もいたことはいただろう。だが、占領地で王様となった皇軍に良識が通用したためしは無かった。食料が欲しければ奪い、女が欲しければ犯す。むき出しの欲望が錯綜した。それが皇軍の戦場であり、結局は慰安婦問題へとつながっているのである。

   (つづく)