河野談話を守る会のブログ2

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日本の公娼制度の伝統的「マワシ」は強制売春の証しである 

            

      1、マワシはどのように始まったか?

我が国では、長い期間、女性を売買し遊郭で性奴隷として酷使する習慣があった。
人権思想も何もないような江戸時代後期の吉原には”廻し”と呼ばれる遊郭の悪習慣が生まれた。このやり方が後に日本全国に広まり、さらに下士官兵用の慰安所でも採用されたのである。

”廻し”とは、1日に複数の客をとらせることだ。
遊郭の主人にとっては、その方が儲かるからである。

江戸時代には、梅毒に対して有効な治療法が無かった。その上粗食である。『吉原花魁日記』によれば大正時代になってさえ粗食であったというから、江戸時代は食料事情がさらに悪く、肺病になるものも多かったに違いない。結核も有効な治療手段が無い時代である*(1)
後の慰安所でも10人に1人は肺病に侵されたと千田夏光は書いていたが、食料事情がさらに悪い花魁の多くは若くして病に伏せ、死んで行った*(2)
 
江戸の吉原も後期になると売上が低下する。遊郭業者は大名相手の高級指向を捨て、大衆化を謀っていく。こうして薄利多売の淫売行となって行ったのである*(3)「廻し」は、どうせ死ぬんだからと、遊郭楼主が花魁をコキ使う発想をしたものと見える。どうせ死ぬのだから、それまでコキ使おうというのだ。


19世紀初頭の『世事見聞録』武陽陰士)が述べているように、あらたな搾取システムが始まったのだ。

「廻しといって5人でも10人でも客のあり次第に廻して相手させる。年いたらぬ者にむりな勤めをさせ、色欲強請な大人の相手をさせ、病気も構わずせめ遣う・・・」

 




*(1)『青楼掟』いう江戸時代後期の遊郭の掟書には、楼主が花魁に「嘘をついて金を使わせる」ように述べるとともに、「「瘡かき」(梅毒持ち)でも接待するように」命令している。この資料には、病気になっても客をとるように、とか病になっても看病はなく、また食事は粗食であることも書いてある。(『これを読まずに江戸を語るな』p30-p37)

*(2) 小谷野敦 『日本売春史』p142、(飯盛女について)「推定平均寿命は22,3歳だという」と五十嵐富夫の飯盛女ー宿場の娼婦たち』を引用している。
岩永文夫『ふーぞくの日本史』p48、(江戸の遊女について)「彼女たちの平均寿命は、推定するに22~23歳といったところだろう」

*(3) 台東区役所 『新吉原史考』 台東叢書、「享保期を頂点に吉原は毎年衰退を続けていたが、天保期から幕末に移るにしたがいますます凋落し、人肉の市場と化したようだ。」



            

   2、廻しはたいへんな苦痛であった

 
森光子さんの『吉原花魁日記』には、お客が10人足らずでも「ヘトヘトになった」様子が書かれている。

よく、「またを開いているだけの楽な商売」なんていうバカウヨがいるがとんでもない話だろう。
思ったよりはるかに重労働なのである。
 
神道さんんは一番多い時には、70人を超えていたというが、それは我々の想像を超えている辛さだったに違いない。


ラバウルに赴任した岡本信男氏は、疲れきっていたらしい女性の様子をこんな風に描いている。

岡本信男  『ラバウルの落日』 1975 ニューブリテンラバウル1943年
カーテンをまくって入ると何とも不快な汚臭が鼻をついた。無表情そのものの「かの女」がやせた土色の全裸を投げ出して、ふてくされたように椰子の羽の扇子をつかっている。


ラバウル慰安所にいた日本人女性はこう証言した。

青年将校慰安婦、みやま書房、1986、66ページ)
その頃(注:ミンダナオ島のタバオにいた時)は、現役の若い兵隊さんばかりで一日7、8人が限度、楽じゃないけど体を悪くすることはありませんでした。半年ぐらい働いて、 去年の10月末にこのラボウルに来たんです。ここでは、大きな部隊(38師団<名古屋>)の専属になって、とても忙しかったんです。毎日朝から12、3人もの兵隊さんの相手をさせられてお金にはなりましたけど、辛いんですよ。それで、辛いというと、「最前線の女は、一日30人もの相手をするのに、お前たちはなんだ」と叱られるのです。でも30人なんてとても、せいぜい20人がやっと、1週間も続いたら体を悪くしますよ

「辛いんです」「30人なんてとても、せいぜい20人がやっと、1週間も続いたら体を悪くしますよ。」というのだ。


同じラバウルについて、日本人慰安婦であった高安やえさんの話も聞いておこう。


高安やえ「女のラバウル小唄」、戦中派の会編 『続 戦中派の遺言女性版』 1979)

あなた、女が戦地に行って、汗くさいけだもののような男たちに体のすみずみまでなぶられて、嬉しがると思うの。みんなお金のため、貧乏で食えないから、じっと歯を食いしばって我慢してるんじゃないの。
  [中略]
女の身体は生身なのよ、機械じゃないのよ、その生身の体に飢えたおとこたちが50人、100人と続けざまにさいなんできてごらんなさい、どうなると思う。もう真っ赤に腫れあがって、傷だらけになって、足なんか閉じていられない。歩くのだってガニ股でやっとなのよ。それでも翌日はまた男に抱かれなければならないと思うから、冷たい水で一生けん命冷やして、涙をぼろぼろこぼして。私、朝鮮の女たちが、そうやってお互いに助けいたわりあっている風景を、何度も見たわ。そんな時、私は女って悲しいなぁて何度泣いたか知れません。」



「もう真っ赤に腫れあがって、傷だらけになって、足なんか閉じていられない。歩くのだってガニ股でやっとなのよ。それでも翌日はまた男に抱かれなければならないと思うから、冷たい水で一生けん命冷やして、涙をぼろぼろこぼして。」

 
 
北海道新聞の記者の質問に答えた大竹三郎氏は、北千島での慰安所体験を次のように語っている。

 
海道新聞社編 『戦禍の記憶ー戦後60年100人の証言』 2005
 
(p149~p150)

「北千島にも軍の慰安所があった」
札幌市に住む87歳の大竹三郎さんの証言

昭和18年
北千島・幌筵島

「兵隊ばかりの北の島にも軍の慰安所があり、『朝鮮半島出身の若い女性が朝から晩まで、強制的に兵たちの相手をさせられていた』と、大竹三郎さんは証言する」
「この慰安所は、1943年、北千島の幌筵(パラムシル)島にあった。外出許可が出て、『慰安所許可証』が交付された。慰安所は軍の施設だった。大竹さんは旧満州アッツ島キスカ島と転戦。5年近い軍隊生活で死のふちをさ迷った。『生きている証しを、女性を抱くことで得たかったのかもしれない』という。宿舎で酒を飲み、1キロほど離れた慰安所を訪ねた。バラックが2棟並び、奥が将校用、手前が下士官と兵隊用。長屋の2つの入り口には、兵が整然と列をなしていた。時間は1人30分で、巻き脚半を取り、軍靴のひもをゆるめて順番を待った。部屋にいた女性は、言葉などで朝鮮半島の出身と分かった。名は花子、18歳と明かした。軍の売店で買ったアンパンを食べさせ、残りのパンを袋ごと与えると、女性は突然、布団をはねのけ、寝巻着の前を開いた。彼女は『見て』と性器を指し示した。そこは、裂けたような跡が、いく筋にもなって盛り上がり、無残な傷あととなっていた。酔いも好奇心も性欲も消し飛び、いたたまれなさと行き場のない怒りに襲われ、部屋を飛び出した。廊下に出てほかの部屋のドアを開け、やめさせようと大声で怒鳴り、戦友に抑えられた。『少女のころ連れてこられ、いや応なしに日本兵の相手をさせられた。悲鳴とおえつをどれだけもらし、屈辱にまみれたことか』と話す大竹さんの顔が苦痛でゆがんだ」
 
 
「彼女は『見て』と性器を指し示した。そこは、裂けたような跡が、いく筋にもなって盛り上がり、無残な傷あととなっていた」のである。

身体に傷を負っていても休むことはできない。
それは「強制売春」だったからだ。

1941年20歳の時ソ満国境付近の「慰安所」に入れられた黄錦周さんはこう語っている。
一日に相手にした軍人の数は30~40人くらいでしたが、休日には軍人達がふんどし一枚で列をつくるほど押し寄せました。(中略)子宮が腫れて血膿がでて兵隊の相手をすることができなかった日、ある将校が来て相手ができないなら、代わりに・・・・・・するとその将校は『この野朗、殺してやろうか』といってめちゃめちゃに殴る蹴るの暴行を加えました。・・・」

『証言ー強制連行された朝鮮人慰安婦達』より
 
子宮が腫れ 血膿がでたというのである。

 
これが自発的な売春であるはずがないだろう。
例えば、一日に1人ぐらいなら、楽しんで売春する女性もいたかも知れない。
しかし、性器が真っ赤に腫れあがって、傷だらけになったり、裂けてまで身体を売る女性がいるだろうか?

日本の公娼制度は、豊臣秀吉が大阪と京都に遊郭を公認した時から始まり、明治の本格的開国の後、欧米諸国の公娼制度を形だけ真似たものである。しかしフェミニストの藤目ゆきや右派の秦郁彦はともに、伝統的公娼制度を無視して、あたかも明治時代から始まったような錯覚を誘発している。藤目ゆきの場合はおそらく「女性はどこでも虐げられた」を強調するためだろうし、秦郁彦の場合は、「慰安婦制度なんてどこにでもあった」事を示すためにだろう。
しかし、日本の公娼制度は独自の収奪制度であり、人権を大きく侵害している。それは「廻し」という鬼のような過労システムをはらむ濃厚な強制売春システムだったのである。

もし日本の遊郭に「廻し」がなかったら。
慰安婦問題もここまで酷い人権侵害としてとらえられる事もなかったかも知れない。長い日本の歴史の中で培われた強制売春制度の風習が、苦しみの多い慰安婦制度を造り出したのである。
「廻し」とは集団強姦の隠語である。



鮎川信夫著『鮎川信夫著作集第七巻』思潮社、1974年発行。
昭和17年、シンガポール

シンガポールではじめて慰安所を設けた時はひどかったな。ダンサーなどしていたらしい18、9位から20過ぎの支那の姑娘なんかが、ずいぶん娼婦として兵隊たちの相手をしなければならなくなったんだが、その時は空ホテルを臨時にピー屋として使用したのだが、なにしろ作戦中はそうした機関がなかったし、やっと落着いたところで愈々開業ということになったのだから押しかけた兵隊の数がもの凄いんだ」「俺達大隊砲はピー屋へ出かけるのが後れたので、もうすっかり部屋の扉の前には長蛇の列が出来ている」「俺達は長蛇の列を見ただけで怖気づいて入るのは止めて」「帰りに一寸覗きに寄った時は全く魂消ちまった。ピーがみんな死んだようになったり虫の息になったりしているんだ」「寝台の上には髪をふり乱して殆ど裸体に近い女が真青な顔をして苦しそうな息をしながらのびている。みんな商売の娼婦でないからやっぱり弱すぎたのかもしれない。それに年齢が若いし可哀想とか何とかいうよりも凄愴な陰惨な正視にたえない狼藉の光景であった。中には血を喀出したり、なんか汚物を吐き出したりして、死んでいるのか生きているのかわからないのがいる」「本当にあの時の状景は忘れることができない、なんともいえないものだったよ」
(p254~256)

水木しげる 『水木しげるラバウル戦記』筑摩書房、1994
昭和18年11月ごろ、門司から南方に向けて出発

南方・ラバウル

「(遺書を書けと命令された)そのあくる日、ピー屋(従軍慰安婦)に行っていいという命令が出た。早速行ってみると、なんと長い行列ではないか。これは何かの間違いではないかと観察すると、行列は小さい小屋まで連なっている。そういう小屋が6つばかりあり、いずれも、50人位並んでいる。やる方も必死だが、こうなるとやられる女の側は下手すると死ぬのではないかと思った。50人もいるとすると、終りは何時になるか分らない。2、3時間まったが行列の人数は少しも減らない」(p63)


佐木隆三著『娼婦たちの天皇陛下潮出版社、1978
沖縄

1年ほど前(1971年)に、かつて日本軍の慰安婦だった女性に会った。いまは、小さな店を経営している。戦前の遊廓である(那覇の)辻町で娼婦をしていて、沖縄守備軍に徴用されたのだった」「本土から来る官僚や商人の現地妻として重宝がられた辻町の女たちは、太平洋戦争の末期にどっと10万もの大軍が沖縄守備にあらわれたことで、こんどは慰安婦として重宝がられたわけだ。娼婦なりにプライドはある。わたしに話してくれた元慰安婦は、『(辻町では)一晩に一人しか客をとらないで奥さんみたいに尽くしていた』ころのことを強調する」「『それがさ、慰安所にやられてからは、1日に何十人も相手にさせられて、それはもう、ズリ(娼婦のこと)なんかじゃないよね、こうなると……』と、それから先は口をつぐむ」「沖縄戦が激化し、日本軍は南端へ敗走を続けるが、このとき慰安婦たちも行動を共にする。朝鮮人が沖縄へ送り込まれていて、不運な娘たちは辻町のズリたちよりもさらに惨めだった。なにしろ腰が立たなくなったのをかついでトラックに乗せ、順番を待つ次の部隊へ運んでまたベッドで身体を開かせるほどだったという。この朝鮮人慰安婦も辻町から来た慰安婦も、激戦のさなか補助看護婦や炊事婦として酷使される。そして慰安婦としての役目も、また……」「日本国内で、軍隊の慰安所があったのは、沖縄だけのはずである。本土にも、慰安所として機能する公娼地帯があったのはもちろんだが、少なくとも行列はなかっただろう。だが、沖縄には行列が作られるほどの慰安所があった。輝ける皇軍の兵士たちが昼間から性の排泄のために行列を作っても、住民の目を気にしなくて済む。なぜなら、実質的には植民地なのだから……」
(p10~13)
 
 
平塚柾緒編『知られざる証言者たちー兵士の告白』 p339ーp349
2007年発行。(『週刊アサヒ芸能』1971年連載)
「将校専用の女性たちは幸せだったといえる。というのは、すぐ裏には横須賀の『小松』という民間経営の慰安所が出張営業をしていたし、また一般兵隊用の女性たちは、1日1人などという贅沢は認められなかったからだ。『私の知っているもので、1日に65人を相手にしたのが新記録だったと覚えています。その女性は翌日から2日間も起き上がれなかった』」