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朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』に書かれている慰安婦と辻政信の『十五対一』




                     ★朝鮮人強制連行の記録』

朴慶植朝鮮人強制連行の記録』における慰安婦記述


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同胞で軍人、軍属として南方に連行されたものは数十万の大変な数に上ると思うが、このように輸送船が沈められて死んだものが相当多い。またこの中には同胞の女性も多かった。
 玉致守氏の乗った船で南方に連行された朝鮮女性だけでも二千数百名にも上る。これらの女性は故郷にいるときには戦争への協力を強制され、軍需工場、被服廠で働くのだといわれて狩りだされた一七-二〇歳前後のうら若い娘たちであった。しかし実際はこうして輸送船に乗せられて南方各地の戦線に送られ軍隊の慰安婦としてもてあそばれた。
 玉氏は沖縄でも下関や博多駅の待合室でも南方に送られるこのような同胞の女性を無数に目撃し、何ともいえない怒りと悲しさを味わった。
 玉氏が三回目に沈められた船にもはじめ一五〇余名の同胞の女性がのっていた。途中沖縄の宮古島に下船させたので海のもくずとはならなかったが、彼女らの運命はどうなったかわからない。


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戦線に連行されたのは軍人、軍属としての青年ばかりではない。うら若い同胞の女性が多数「女子挺身隊」、「戦線慰問隊」などの名目でひっぱられ、「慰安婦」として戦争遂行の犠牲にされた。さきの辻政信の著書にも「第一線の陣地にまで天草娘が進出し、朝鮮娘が附添っている」「慰安婦二〇名が軍服を着て弾丸運びに看護にあるいはお握り作りで・・・」とあり、また同戦線での生残りの中野礼造氏(福岡出身)の語るところによってみても、ビルマ派遣軍各師団には大勢の朝鮮女性が慰安婦として配置されており、一部隊だいたい二〇名前後で、彼女らの軍人とともにほとんど死亡している。同胞女性は中国や南方、沖縄の各戦線にも多数連行されているが、全体の数は数万に上ると思われる。



この著作の第一刷が1965年5月だという事は特筆しておくべきだろう。p122とp169にそれぞれ、慰安婦について言及した部分があるが、千田夏光佐藤早苗が慰安婦問題をレポートする10年近く前にすでに、書いていたわけだ。

              
                        『十五対一』

p169で辻政信の著作『十五対一』について言及しているので、これもついでに掲載しておこう。

「作戦の神様」とあだ名された辻だが、東條に嫌われ1944年7月、第33軍参謀としてビルマに赴任した。そのころビルマは最も厳しい敗北を迎えようとしていた。「拉孟・騰越の戦い」は玉砕した闘いとして有名なだけではなく、朴永心さんの写真でも有名である。慰安婦の多くも巻き添えのような形で命を落としている。「地獄のビルマ」と歌われていた。

雲南ビルマ最前線における慰安婦たちー死者は語る」http://www.awf.or.jp/pdf/0062_p061_088.pdf

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