公娼制度
「貸座敷外の売淫行為は違反」とされていたはずの戦前の法体系 戦前の日本には公娼制度があった。公娼制度があったということは、私娼は禁止されていたということである。 1935年、来る廃娼の波に危機感を募らせた遊郭業者は『全国貸座敷総合会臨時大会…
明治時代の終わり頃、神戸芦屋の貧民窟に身を投じ、まさに『死線をこえて』生きた牧師・賀川豊彦は、当時もっとも著名なクリスチャンであった。その賀川の盟友が村島帰之である。大阪毎日新聞の記者であった村島は1925年自身の買春を懺悔した『歓楽の墓』を…
1926年12月文化生活研究所から刊行された『光明に芽ぐむ日』 作者は、元吉原の花魁、森光子である。 『吉原花魁日記』、『春駒日記』 から、吉原娼妓の生活を探ってみよう。 本の帯 1905年、群馬県高崎市に生まれる。貧しい家庭に育ち、1924年…
今回の国連委員会で日本政府代表部の岡田隆大使が「慰安婦を性的奴隷と呼ぶのは不適切だ」「奴隷制度の定義について、条約上の検討をした上で、この制度は性奴隷制の問題ではない。その定義に当てはまるものとは理解していない。性奴隷制度は不適切な表現で…
コンビニの雑誌コーナーにはいつも阿然・呆然とさせられる。商業主義とは言え、こんなに質が低くなる原因は何なのだろうか?昔どこかの新聞で、「日本の男性が電車の中で、平気でヌード雑誌を広げていることが不思議である」という米国人のコメントを観た事…
廃娼運動の歴史は日本の最も輝かしい社会運動史の一つである。徳川幕藩体制の中で、しみついたような公娼制度・・・・・この制度はマリア・ルーズ号事件の裁判の際にペルー側の弁護士ディッキンズが指摘したように、「日本国内には娼妓という奴隷が数万人も…
1、古代の売春は神社から始まった 平安末期に編纂された今様の歌を集めた『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)には、「東には女はなきか男巫(おとこみこ)、さればや神も男には憑く」とあるが、 これは原始神道においては神につかえる者は女性に限られた思…
満州事変前後、東北農村の不況が生んだ身売り娘が大きな 社会問題となったとき、世論の圧力におされて、内務官僚が 公娼廃止の断行を目論んだことがあった。おどろいた親方たち は全国貸座敷業者1万1千人に激を飛ばして、35年(昭和10 年)2月東京で…
(前ページからの続き) 3、188年、働き続けなければ、借金が返せない! 次も証言である。 http://bungaku.cocolog-nifty.com/barazoku/2010/01/post-cf18.html からの転載 僕は数学の才能はまったくないけれど、祖父は数字に強かったようだ。遊郭の樓…
1、廃娼運動の歴史 明治から昭和初期にかけて、廃娼運動を続けて来たのは、日本キリスト教矯風会、救世軍、廊清会などであった。 1926年に当時の警保局長であった松村義一が警察本部会議に 公娼制度の改廃に関する諮問案を提出し、廃娼論がさかんになっ…
政治家達の中には、「当時、公娼制度があったのだから、売春は認められており、たいした問題ではない」と言う者もいる。 しかし、その公娼制度を朝鮮半島に持ち込み、女衒が暗躍するようになったのは、まさに大日本帝国のやった事だったのである。 以下、『…